闇久終焉・2


  何故彼女を選んだのかは覚えていない。ただ何となく自分と似ている気がしたのだ。しかし、それは全くの間違いであることに気づいた。自分は一人で生きてきた。だから彼女も自分と同じで他人を利用し「騙す」ことで生きてきたかと思ったのだ。しかし彼女は違った。彼女は他人を決して裏切らず、そして他人を決して騙すことはしなかった。ただ己の力だけで、時には他者に感謝して強くなっていった。
 いつの間にか彼女に惹かれていた。他人でありながら肉親であると騙し、その罪悪感に包まれながらも、彼女のそばにいる心地よさには勝てなかった。
 自分はとても弱い人間だ。だから変わらなければならない。彼女のためにも。それがせめてもの罪滅ぼしになると信じて。
 
 ハナは森を見つめた。先に見えるのは結界だ。道を惑わす結界なのだろうが、ハナにとってはまるで意味のない。
「『私よ』」
 結界に語りかける。彼女の力は「騙す」力。結界の主となり結界を「騙す」事など造作もないことだ。
 結界は何の問題なく開き、先を促す。ハナは先へと進んだ。
 
 森の中を疾る。全速力で。余力を余すなど一切考えることなど出来ない。森を縫うように獣のように素早く。
「…………」
 糸の手綱を握り、先を見つめる疾風。
 最悪の状況でありながらも、それは疾風の望んだことだった。そう、彼の願いはもうすぐ叶うのだ。全力で、ただ全力で走りながら片隅でそう思う。それは、望みながらも望まない矛盾めいた願いだった。
 
 たどり着いた場所は広い草原だった。ここから村がよく見える。だが、ハナはこの草原の寂しさに心を打たれた。ここはあまりにも辛すぎる。ただその想いだけがこの場には流れている。思わず涙を流しそうになりながらも、ハナは先へと進む。
 そして、見つけた。呪いの収束点を。
 
『あなたは何ものです?』
 それは声と共に現れた。ゆっくりと、それは構成され、最後には一人の巫女となる。銀髪の美しい女性。生命力無き銀色の瞳は氷のように冷たく、感情のない顔は彫刻のように秀麗だった。
 その女性と対峙するハナ。初めて会ったはずなのに、何故か彼女に前に出会った気がする。どこだろうか。ふとハナは考える。以外にもその答えはすぐに出て来た。
(あの人と同じなんだ…………)
 銀髪銀眼の青年。あの青年と目の前の女性はどこか似ている。ただ同じ色の髪と目をしているだけではない。その全体的な雰囲気が似ているのだ。何ものにも絶望しきって、ただ己を腐らせていくことしかできない哀しい存在。それが彼女の瞳の奥に去来していた。
「私はハナ…………」
 ハナは名乗りを上げる。
「帝の命によりこの村の呪いを払いに来たもの……」
 対象に視線を送る。前に見える女性は人間でもまして生物でもない。ハナの感覚で最もしっくり来るのは「自然」だ。それは「そこにあるもの」でしかなく、善も悪もない。あるのはただの作業。その行為の主観など無視して、ただ当たり前に行うことを前提にしたもの。それが前にいる存在だ。
 女性は表情を変えずにただそこで立ちつくす。やがてゆっくりと口を開けた。
『…………帝は何も学ばないようですね。愚かとは言い過ぎでしょう。人の業、なのでしょうか。あの方も私とほとんど変わらない存在だというのに…………』
 その呟きを聞きながら、ハナは気づいていた。彼女は未だに自分を見ていない。認識はしているが、ハナという存在を個体として認知していないのだ。
『神々の出力でありながらも意志を持っている。ただの構成である私とは違うのでしょうね…………』
 瞳がこちらに向く。何ものをも写しておらず、何の感情も携えていない、あるのは結果を定める公正なもののみ。
「あなたが、この村の呪いを…………」
 呟くが、女性は首を横に振った。
『私は彼女の意思を投影したものでしかありません。いわば呪いの構成の一部。それ以下でもそれ以上でもない』
 風が吹いた。向かい風は彼女をすり抜けてハナの顔に当たる。
「私はあなたを滅します」
 それはつまらぬ宣告だったかもしれない。しかし女性はその言葉に反応した。一度もハナを観ていなかった彼女はゆっくりとハナを観た。殺意も敵意も感じられない。だが、彼女は呟く…………
『ならば、私はあなたを殺します』 
 何の感情も見えぬ、機械的な宣言。故にハナにはその言葉はどこか絶対的に聞こえていた。
 女性が一歩こちらに近づく。
「乱舞、伝え、風!」
 印や詠唱無視の術が発動する。『世界を騙す』ハナにとって術の型など必要ない。言葉と意思があれば他に込めるものなど必要ないのだ。
 風は不可視の刃となり、乱れ、女性の周囲を切り裂く。だが、刃は確かに女性を通るが彼女には届いていない。
『私は術の一部。その術に術を加えたところで意味はありません』
 手を伸ばし、その手がハナに向けられた。
『変革、目前を消失』 
「!」
 世界の「色」が塗り替えられていく。自分の目の前の違和感を瞬時に感じ取り、ハナも叫んだ。
「瞬き動け!」
 己を「騙し」、横に跳ぶ。いや、跳ぶなどという生やさしいものではない。先ほどハナがいた地点からこの場所まで時間差など一切存在しないほどの一瞬で、ハナはそこに到達しているのだ。
 ハナはその動きを終えると、自分が元いた場所を見る。そして愕然とした。ハナが先ほどいた場所は何もなくなっていた。草も大地もえぐり取られている。たぶんあの場所に留まっていたら髪の毛一本も残らずハナは消失していただろう。
「禁術『空』!。何故術の構成であるあなたが術を」
『それは、あなたがこの術を理解していないからです』
 ゆっくりと彼女はハナの方へと体を向けた。
『この術はただの呪いではないのです。あまりにも子供じみた空想の果てに誕生したあまりにも幼稚な術。その結果がこの村の呪いであり私なのです』
 目を閉じると彼女は空を見上げた。
『私は彼女の分身。奪った魂を運命反転の力とし彼女の「願い」を叶える。ただそれだけのこと。そのためなら彼女の力を使い、私は邪魔になる存在を消し去るのみ』
 目を開き、再びこちらに顔を向ける。その瞳の奥には何も写ってはいない。感情などがあるわけがない。目の前にいる存在は結果実現のための装置でしかないのだ。人の形をした自動人形。その言葉通りの存在がここにいた。
(「彼女」の力をも投影して呪いを払うためにやってきた術者をことごとく倒してきた存在が、私の目の前にいる)
 胸の奥で呟き、自身の体を確認する。幼年であるハナにとって長時間動くことは難しい。能力を使っても連続で小半刻動ければいい方だ。
 体に異常はない。完璧とは言い難いが最悪ではない。
「短時間で勝負を決める」
 小さく、そう宣言するとハナは走り出した。
「聞け!私は彼のものを屠るもの!」
 叫ぶ。世界を「騙し」彼女を殺すだけの力を得る。
『!』
 女性は無表情のままではあったが、心なしか緊迫したような面持ちになり、後退した。
「変革、目前を消失!」
 禁術「空」。純粋なる破壊を顕現する破壊力だけを見るなら術の中でも最高の部類に入る術だ。眼前の世界が一時的に別空間に転移することで目標を文字通り消滅させる。
 女性は直ぐに横に移動するが、左手だけが間に合わない。
『!?』
 転移。彼女の左手は何の音もせずに消失する。
『術に力を上乗せ…………。術の形状を変えて私を消滅させるだけの常識法則を曲げてきたようですね…………』
 消滅した左を見ながらも、彼女のその仕草は冷静そのものだった。しかしハナは怯まない。力を込めて、祝詞を詠う。
「集え、束縛よ。其の根元は空。槌は墜となり終となる!」
 力は女性を縛り、動きを奪う。外すことはない。
『ならば私も本気であなたを殺しましょう…………』
 彼女の言葉が終わる前に、ハナは術を完成させた。
「終空!」
 そして、空が墜ちる…………
 
「ハァ、ハァ、ハァ」 
 一体どのくらい走ったのか。日は暮れて森は闇に落ちている。
「ハァ、ハァ、ハァ…………」
 相手も動いているが、ツバメを抱えているために疾風よりかなり遅い。この分ならしばらくすれば追いつくはずだ。
「ハァ、ハァ、ハァ…………」
 足が着いていかない。だが、それでも走る。少しでも早く、一分一秒を短縮して彼女の生存の確率を伸ばし、鴉の手がツバメに届かない内に追いつかなくてはならない。
 己が何を望んでいるか。理解はしていた。だがそれを容認するわけにはいかない。それこそが彼の望みだから。
 ただ、今は単純に、ツバメの安否だけを望んでいた。
 
「鴉!!」
 今までにないほどの叫び声を上げ、前方を行く鴉の後ろ姿を止める。息も荒く、疾風もそこで立ち止まった。
「疾風!」
 横には鴉と繋がった黒い縄のようなもので縛られているツバメがいる。遠目では特に外傷もないようだ。そこで気持ちが落ち着き、疾風は再び鴉を見る。鴉はちょうど疾風の方に振り向く所だった。殺気はない。だが、振り向いた瞬間、疾風は己が凍り付くことを自覚する。
 
 鴉は、嗤っていた…………
 
 動けない…………否、動かない…………
 
 普段の疾風なら鴉がこの後何をするかすぐにでも分かっただろう。だが、この瞬間、鴉の嗤みを見たこの時だけ、疾風の思考は停止していた。
 
 すうっと、ツバメの体から黒い刃が通る。
「えっ…………?」
 言葉を発したのは『刺された』ツバメ自身だった。
「あ…………」
 黒い縄がほどかれる。
「あ………………」
 痛みがない。だが、立っていられない。膝を突き、うつぶせでツバメは倒れる。
「ああ…………」
 血が自分の腹から出て行く感触がある。
「ああ……」
 痛みがない。それが恐ろしく怖い。意識が保てない。そしてもし意識を失ったら……
「ああ!」
 涙が流れる。腹に風が通る。体中が熱い。
「あああ!!」
怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!怖い!
 
『ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!』
 笑う。
 鴉はそんなツバメを見て笑っていた。嬉しそうに。心底楽しげに、笑っていた。
「ツバメ!」
 ようやく体の硬直が解け、ツバメに駆け寄る。うつぶせに倒れているツバメを抱きかかえ、傷の確認をする。だが、それは間違いなく致命傷だった。
「駄目だぜ〜兄〜弟〜。そいつは〜もう死ぬ」
 戯けながら場違いに楽しそうな鴉は今にも踊り出しそうな程だ。
 疾風もそれは判っている。出血を抑えれば少しばかりは延命出来るが、それも根本的な解決にはならない。彼女は生きられない。それが事実なのだ。
「なぁ?理不尽だろ。俺はお前を殺したいだけなのに何故か俺とは何の接点もないそこの餓鬼を殺した。だってさ、しょうがないだろ。こうでもしなきゃお前は本気にならない」
 分かっていた。いや、予知していた。こうなるのだ。疾風に出来たのは、ツバメがさらわれた時点で出来る限り早く追いつき、鴉によって精神を壊されないようにすること程度だった。
「ほら、お前って自分よりも他人の傷つく方が嫌な人種だろ。俺は人が傷つくのが何より好きなんだけどさ。だから、人が死ねば本気になると思ってさ」
 そして再び笑う。
「………………」
 鴉の声など聞こえない。疾風は目の前にいる今にも死を迎えようとしている少女を見ていた。血の気を失い顔は青く、抱きかかえている手からは血が流れる。
「別れを済ませたら来いよ。楽しく殺し合おうぜ兄弟」
 鴉が消えた。
「ツバメ…………」
 思わず声が漏れた。それに反応してゆっくりとツバメはこちらに目を向ける。
「は……や…………て……」
 咳をする。咳には血が混じり、彼女の口を汚した。
「…………」
 投げかけてやる言葉が浮かばない。励ましも同情も何の意味をなさない。彼女はこれから死ぬのだから。
「怖いよ………疾風…………」
 最後の力を振り絞るかのように、彼女は必死に疾風の服を掴む。
「死にたくない…………私……まだ死にたくない…………」
 流れる涙。彼女の言葉は疾風に突き刺さる。
「助けて…………助けてよ…………疾風…………」
 助ける方法などあるわけがない。彼女は死ぬ寸前の体だ。もはや死体と同義語に近い。そんな彼女を助ける方法など、死者を蘇らせるほどの力が必要だ。
 そう考えた時、あることを疾風は思い出す。
 
 死者を蘇らせる方法なら…………ある。
 
 だが、それは彼女にとって幸福であるかは分からない。このまま死なせてやった方が彼女にとっては幸運ではないのだろうか。
「ツバメ…………死にたくないか?」
 その言葉を聞いて、ツバメは小さく頷いた。
「けどな。この世には死ぬことよりも辛いことがいくつもある。お前を助ける方法は俺にはそれしかない。死ぬより辛いこと。それでもお前は死にたくないか?」
 これは最後の質問だ。何を望んでいるわけではないが、疾風にとって分を超えた領域の質問。あの時、彼女を助けた時と同じ事を自分はしようとしている。
 今にも死を迎えそうな彼女は疾風の言葉を聞いて、かすかに、ほんのかすかに笑みを浮かべた。
「私は…………馬鹿だから…………死ぬことより、怖いこと何て分からないよ…………だって、私は…………生きて……いるんだもん…………」
 その笑みは何処までも痛々しい…………
「…………あ」
 そして、その言葉を聞いた時、疾風は己の中にあった目標が間違っていることに気づく。
 
 死ぬことを目的としていながら、自分は死を望んでなどいなかった。
 
 そう、怖かったのだ。死ぬことが。だから、都合の良い言い訳を作ってそれに縋っていた。
 
 死ぬのが目標?それは生きたい自分の罪悪感を隠す言葉でしかなかった。
 
「そうか…………そうだな。死ぬより怖いこと何て、分かるわけ無いな…………」
 こんな簡単なことを少女に教えてもらった。
 疾風にもはや迷いはない。道は教えてもらった。自分は自分の殻に籠もっていただけの弱い存在。だが、もうそれは止めよう。一歩前に進む。
 疾風は彼女を抱きしめると首筋に口を持っていき、
 
 その細い首に牙を突き立てた…………
 
 終空。
 禁術の等位の中で二番目に属する一位の禁術。別名「墜空」とも呼ばれる術であり、簡単に言えば空に重力を仮に与え、辺り一面を圧死させる術である。この術を受けて原形を留めていられる生物など存在しない。現にこの術を受けた周りの草は重力で大地ごと潰されている。
「どうして?どうして!」
 だから、眼前にいる存在が信じられなかった。いや、信じることは出来る。だが、信じるわけにはいかない。
 ハナの目の前には左手すら再生している彼女がいた。
『終わる空の術。若年でその術が使えるとは…………』
 ハナの驚きなど意に介さず、彼女は一歩前に進む。
「どうして…………」
 「彼女を屠る」力を得て放った術は確かに有効に作用していた。しかし、突如その力が彼女に到達することなく、彼女は再生すら果たした。そんなことはあり得ないのだ。「世界を騙す」彼女の力は絶対だ。法則をねじ曲げ、認識すらも彼女の力ならば容易く変化出来る。それを防ぐということは…………
「…………まさか、あなたも…………」
『そのまさかです。若き術師よ…………』
 彼女は手を挙げる。
『戻れ』
 言葉と共に世界は彼女の味方をした。
 彼女の周囲にある全てが再生される。彼女自身が削った草や大地も例外なく、まるで時間が戻っていくかのように。
『彼女の力、それは「現象の具現化」。いかにあなたの能力が優れていても彼女の力には敵わない。何しろ彼女の力は法則を曲げるのではなく、法則を作るのですから』
「そんな…………」
 それは、人間が持ち得る最高の力ではないか。いくら世界を「騙せて」も、その世界自体が変革させられてはハナの力など意味をなさない。彼女はつまり、空想を発現する能力者なのだ。
 ハナはただ呆然と目の前にいる女性を見つめる。そして、「ああ」と納得した。
 
 彼女は死神なのだ。
 私を殺す…………純粋に「死」を具現化した存在。
 それが目の前にいる
 
『さようなら。若き術師よ。あなたの魂も彼女の願いの糧となるでしょう』
 呟きが聞こえる。だが、ハナにはその言葉は届かない。抵抗は諦めた。万策は最初から尽きていたのだ。いかなる策を弄しても彼女を倒すことなど出来なかった。それが答えだ。
 だが、ハナには敗北感も恐怖も無かった。ただ、
「ごめん、駄目だったよ…………シロ」
 彼女の顔だけが浮かんでいた。
 
『現象具現、「死」を隣に…………』
 彼女の言葉と共に、意識が途切れる。
 苦しみも悲しみも痛みもない、まるで操り人形の糸が途切れるようにハナは手折れた…………。
 
 自分が何故こんな事をしているのか?
 答えを出せないままにシロは歩いていた。相変わらず腹からは血がわずかだが流れ続けている。たぶん、これほど血を流すのは初めてだろう。しかしそんなことを冷静に考える暇などシロにはない。何しろ痛いのだ。腹に風穴を開けられ、その痛みは少しでも気を抜くと気絶してしまいそうなほどだ。だが、気絶する訳にはいかない。しかしその理由を見いだせない。そして分からぬままに歩く。自分の思考が堂々巡りをしているのに足だけは前に進んでいる。
 自分は一体何故こんな事をしているのだろう…………
「ハァ、ハァ、ハァ…………」
 肩で息をする。血が流れ、冷や汗を流し、体がやけに寒かった。
「行かなきゃ…………」
 理由は分からないのに、ただその想いだけが鎖となって彼女を縛る。そしてその鎖は彼女の目指す先にあるような気がする。
「待って下さい!」
 後ろから声が聞こえた。シロは最初幻聴かと思ったが、しかしそれにしてはその声には聞き覚えがあった。
「だから、待って下さい!!」
 幻聴に腕を捕まれ、シロはやむなくその場に止まった。後ろを振り向く。
「…………葉月さん?」
 それは確かに葉月だった。走ってきたようだったが、それにしては息は全くきれていない。
「すいません。ハナさんですか?シロさんですか?ユキさんの話でどうにかここまで来ましたたけど」
 矢継ぎ早に話す葉月だが、聞き慣れない単語が出て来た。
 「ハナ」とは誰のことを差しているのだろうか?ユキという名も分からぬものだったが、
その「ハナ」という存在は自分と比べられるものらしい。
「私は……シロですけど…………」
 「ハナ」とは誰のことか聞こうとするが、それよりも早く葉月はシロの腹の具合を探り出した。
「怪我をしてるとは聞いていましたが、かなり酷いですね。でも、同時に幸運だったのでしょう。大きな血管や臓器を避けて貫かれたみたいですし。一度治療に戻りましょう。ここじゃ応急手当も出来ない」
 葉月はシロの手を握る。だが反射的にその手をシロは振り払った。
「シロさん?」
「……駄目です…………私は行かなきゃ…………」
 ここで戻るわけにはいかない。その想いが強く彼女を支配する。
「行くって何処にですか。確かにその傷は致命傷ではない。でも、怪我には変わりないんです。早く治療しないと細菌が入って取り返しのつかないことになる」
「今行かなきゃ、私は後悔するんです!何だか分からない!でも、でも何か大切なものを失ってしまう!」
 ありったけの力を込めて叫んだ。葉月は呆然とする。だが、直ぐに真剣な面持ちになると、視線をシロに合わせた。
「それはハナさんのことなんですか?」
「…………ハナ?」
 またその名だ。知らぬ名がどうしてここで出るのかシロには分からない。
「誰なんですか。その人?」
「え?シロさんの双子のハナさんですよ。彼女に何か危険が迫っているんじゃないんですか?」
「私の…………双子?」
 自分に姉妹などいない。まして双子など初めて聞いた。
「どうしたんですかシロさん?」
 葉月は困惑している。それはシロも同様だ。葉月とシロには歴然とした差異がある。話しが全くかみ合わないのだ。
「私に双子なんていない…………」
 首を横に振る。急に怖くなった。瞳から涙がこぼれそうになるのを必死に留める。
「落ち着いて下さいシロさん」
 逆に冷静になっている葉月はシロの肩を掴む。
「もう一度聞きます。シロさん。ハナという名に心当たりは?」
 葉月の問いかけにシロは同じく横に首を振った。
「知りません。誰なんですか。その人…………」
 胸が締め付けられる。焦燥感に駆られる。その名を聞くと名状しがたい感情に囚われる。
 混乱しながらも、シロは先ほど向かっていた方角を見つめた。
「……行かなきゃ…………」
 再び歩き出す。
「シロさん!」
 だが、すぐに葉月の手がシロの手を掴む。
「離してください!私はどうしても行かないといけないんです!」
 我慢していた涙がこぼれた。何故泣いているのか自分でも分からない。自分が自分でないような気がしてきた。この感情が一体何であるかそれすらも分からないのだ。
「シロさん…………」
 すっと、葉月の表情が変化した。先ほどまで真剣な顔つきだった葉月はそこでどこか哀愁の漂う哀しげな表情へと変わる。
「行かせてください…………」
 シロにはもう、そんな言葉しか出てこなかった。
「…………分かりました。でも」
 そう言って、葉月はシロの肩を持つ。
「私も一緒に行きます。その体では歩くのも辛いでしょう?」
 葉月は笑って見せた。強がりでしかないその笑みを見て、ようやくシロは落ち着く。その気持ちを表すためにシロは力無く、口元だけで小さな笑みを浮かべる。
「お願いします…………」
 そして、二人は歩き始めた。あの、草原に向かって…………
 
 死ぬかもしれない。
 疾風はそう思った。そしてそれは間違いないだろう。今の自分では万に一つ鴉に勝つ事は出来ない。
 だが、万に一つの可能性はある。今まではその可能性を全て捨てて考えてきた。全てを諦めてできるものだけに縋ってきた。だが、それも終わりだ。
 ようやく気づいたのだ。
 世界はこんなにも可能性に満ちている、と。
 
「……何をした。お前?」
 目の前にやってきて直ぐに気づいたのだろう。鴉は疾風を睨み付ける。
「お前に答える義務何てあるのかよ?」
 短刀と鉈を抜く。
「俺は何をしたかと聞いてるんだよ!」
 無制限に力を開放する鴉。その力はあまりにも巨大だ。自分をあっという間に潰してしまうほどに。   
「さあな。それよりやるんだろ?決着を付けようぜ。鴉」
 走り出す疾風、そしてそれを忌々しげに見つめる鴉。
「ふざけんじゃねえぞ!疾風ぇ!!」
 同じく鴉も駆けだした。
 
 それは、一方的な戦いだった。もっとも戦いなどと呼べるものであったかも難しいが。ただ、疾風は、絶望的な状況で一度も諦めることなく戦い続けた。もしかしたら、疾風は鴉とはもっと別の何かと戦っていたのかもしれない。生死とは別のところで、疾風の戦いは終わっていたのかもしれない。
 
「…………疾風?」
 そして、青年は確実に疾風の所へと向かっていた。これからのことなど全く予想せずに。
 
 …………闇久は、それぞれに見え始めていた。
 
〜十四章「闇久終焉・2」終〜

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