反転悲劇・2


「…………」
 葉月は手を合わせて、死者の冥福を祈ると同時に、自分の心を落ち着かせるように勤める。死者への感情移入のしすぎは、決して良い結果を及ぼさない。先走り、あらぬ誤解を生み出してしまう可能性があるからだ。だから死者への冥福は、ここで終わらせる。そして事件が解決するまでは、決してその感情を表には出さない。それまでは感情を排して論理に徹するのが、この死者への弔いなのだ。
 葉月はそう考える。だから、いつもの張り付いているような笑顔は完全に払拭され、無表情、陰陽寮「払」の時代ではこの顔こそ張り付いていた表情だったのだが、感情を何も写さぬ顔へと変化していた。

   死者は森の中、首を縄で吊されており、その姿は禍々しく、前日までは確かに人であったものであるはずなのに、どこか異形の存在に感じられる。
 葉月は思う。
 これが、生者と死者の決定的なものなのだろうと。死者はすでに人では無く、物でしかない。何も話さず、何も感じられぬ、決定的に人としての活動が停止した存在。それは生きているものにとっては不気味以外のなにものでもない。死を決定的に見せつける物、それこそが死体であり、それを禍々しく見られるのは生者しかいない。だからこそ死体は不気味なのだろう。
 葉月は己の感情を抜き取り死体を詳しく見始める。
 一見すれば、自殺をしたようにも見分けられるが、葉月はその見解はすでに破棄している。理由は簡単だ。男の身長と吊されていた高さを考えた場合、どう考えても男の足から地上は、何かしらの踏み台が無くてはならない。しかしそのような踏み台は辺りを探しても無く、これはどう考えても他殺、しかも人外のものの可能性があった。
「…………」
 ゆっくりと横たわっている死体を見つめると、そっと手をさしのべる。手はやがて死体の首筋にあたり、指先からはぞっとするような冷たさが伝わってくる。これが死体の温度。当たり前だと思っていた人の温度はそこにはなく、驚くほど冷たく、指先の体温を奪っていく。だが、葉月はその冷たさに触れながらも指を動かし、そして首の付け根にある傷に触れた。小さな傷だが、この傷には覚えがある。彼の経験がそう語っていた。そう、このような死体にも実は見覚えがあった。「払」を辞めて、最早見ることはないと思っていた死体。体中の血を抜かれ、首筋に牙で噛まれたような傷のあるこの死体は…………
「吸血鬼…………」
 吸血鬼が吸血をした結果、生まれた死体だった。

「と、言うわけで、心当たりはないでしょうか?」
「…………んなこと言われてもな」
 死体の見聞が終わって半刻程度の時間が過ぎ、葉月の家である神社の宿舎に三人の男が集まっていた。  
上座で正座で座っているのは葉月。そして、お茶を添えられて向こう側に疾風と青年があぐらをかいて座っていた。
「第一、最初に疑われるのは俺だろ?」
 吸血鬼である疾風は自分を指差した。
  吸血鬼の絶対数は少ない。最近では特に術を使用する人間が減少傾向にあり、そうなると当然、外法を使う人間も少なくなっている。現にすでに陰陽寮内で外法を使う人間は完全に消滅しており、吸血鬼の発生は最早無いとされているのだ。当然これは表向きの話で、中には使用している人間もいるかもしれないが、それでも疾風のいた四百年前に比べれば圧倒的に少なく、吸血鬼は絶滅種になり始めている。確認はされていないが、たぶん両手で余るほどしか吸血鬼はいないだろう。何しろ陰陽寮が異常なほどに吸血鬼狩りに専念していたのだ。その時代を生きた葉月にもそれが分かっているはずだろう。
 その中で起きた吸血鬼の事件だ。同じ村に吸血鬼が二匹もいると考えるよりは、先にいる吸血鬼を疑うのは当然である。
「確かにそうですが、疾風さんが犯人ならいちいち時間をかけて死体の首に縄をかけて木の枝に吊しますか?」
 葉月の表情は硬く、いつものどこか人なつっこい表情がなりを潜めている。一切の冗談は無用と言いたいげだった。疾風にも事の重大さが分かっていたので、「来て欲しい」との葉月の提案を快諾しこの場にいるのだが。
 出されたお茶を一口入れると、疾風は床にゆっくりと置く。
「まあ確かに。そんな時間があるなら逆に穴を掘って死体を埋めてるな。吸血鬼の犯行だといちいち分かる死体を、野放しにしとくなんて馬鹿なまねはしないし、逆に目立つようなことなんて何の利益もない」
「そこなんです。何故いちいち死体を目立たせたのか?理解に苦しむところですよ」
 首を傾げる二人。そんな中、お茶を飲んでいた青年がゆっくりと顔を上げた。
「…………」
「何だ。名無し?」
 何か言いたげだった青年に気づいた疾風は先を促す。
「……発想が逆なのかもしれない」
「逆?」
 呟いたのは葉月。それに青年は頷く。
「全く逆。殺した理由すらもいれて……」
 青年の言葉は難解で、その説明すらない。だが流石に付き合いの長い疾風は、即座に彼の意味を悟った。
「つまり、何かの理由で殺したんじゃなくて、殺すこと自体が理由って事か」
 葉月もはっとする。
「待って下さい。じゃあ犯人は死体を見せるためだけに殺したってことですか?」
 それを聞いて、無言で青年は頷く。
「まあ、可能性ってだけだ。理由は他にもいくらでも考えられる」
 床に置いた湯飲みを、疾風は再び手に取った。
「……そうですね。……殺すことが理由なんて考えたくありません」
「…………」
 葉月もようやく自分の湯飲みを手にしてお茶をすする。
「…………」
 疾風は黙ったまま思案する。
(俺を楽しませてくれよ。兄弟)
 殺すことを理由にする男。疾風は知っていた。人間をまるで玩具のように扱い、死を雨のようにふりまく凶人。それは確かに存在する。少なくても、四百年前に彼は見ていた。
「疾風さん?」
「ん……」
少し思案に耽ってしまい、葉月の言葉が入ってこなかった。
「聞いてましたか?」
「悪い、ちょっと聞いてなかった。何の話だ?」
 素直に謝る。
 特に気にもせず、葉月は再び話し始める。
「夜の見回りについてです。相手は吸血鬼の可能性がありますから、村の人に任せるわけにはいきません。ですから、私達三人での交代制で見回りをしてはどうかと思いまして」
 相手が吸血鬼なら、他の村人など相手にならない。確かにもっともな話だ。
「あの双子はどうしたんだ?頭数に入っていないみたいだが」
 考えてみれば、この場にあの二人がいないのも気になった。特にシロの方など暴走して疾風を殺しかねないだろう。その点ではいなくて助かるのだが。
「あのお二人なら今別室で『呪い』の根元を調べています」
疾風の眉が動いた。
「『呪い』?そう言えば村を案内している時にそんなことを言ってたな」
「あ、そう言えば言っていませんでしたね。特に秘密というわけではないのでが、この村にはある呪いがかけられているんです」
「……初耳だな」
 そんなことはツバメも言っていない。
「村の人は言わなければ言いませんから。それにどちらかというと、言わないと思い出せないという雰囲気もあります」
「どういう事だ?」
「詳しくは私には分かりませんけど。シロさんの話では、この村は二種類の呪いによって構成されると予想できるそうです」
「…………詳しく話してくれないか」
 疾風は腰を据えた。

 『呪い』と言われるものは別段特別なものではない。法や常識などと言う言葉も言い換えれば『呪い』なのだ。しかし陰陽寮が使う『呪い』は当然ある規定によって存在する。

 『呪い』とはつまり『術』によってもたらされた厄災の循環。理とはことなる新たなる人工的な自然。それが『呪い』の規定だ。

「私が聞いたのは『この村を覆う呪い』と、『ある特定に達した時に発動する呪い』の二種類です。この村を覆う呪いとは『もう一種の呪いを意識しない』と言う呪い。そして『毎年、人一人が死ぬ』呪いです」
「毎年人一人が死ぬ?」
「…………」
「そうです。そしてこれが彼女達が陰陽寮から派遣されてきた理由であり、そして私がここにいる理由にもなります」
「そういうことか……」
 疾風は納得したように頷いた。
 最初からおかしいと思っていたのだ。あの双子と、ただ者ではない葉月がどうしてこの村にいるのか、疾風は疑問に思っていた。疾風は偶然を信じない。偶然と言われるものでも、そこには絶対なる必然と意志があり、奇跡などというのは所詮は確率の問題でしかないのだ。
 ようやく、この奇妙な取り合わせに合点がいった。少なくてもこの三人はこの村にまつわる「呪い」のためにやって来ていたのだ。  
 疾風や青年はそれに飲み込まれた「ついで」、なのだろう。
「毎年というのは言い過ぎですね。実のところ二十歳の人間が死を迎える呪いで、毎年というわけではありません」
「それでも、それに近いことがされているという訳か……」
「…………」
 青年は無言。だが疾風には、どこか沈んだ表情に見受けられた。青年はいつも人の死を気にしている。自分が不死者だからだろうか。他人の死に、やけに固執するのだ。疾風と青年の付き合いで彼が唯一感情を見せるのは自分の記憶のことと、死についてのことだけだった。
「ですが、呪いについてはあのお二人に任せましょう。正直、私達では何の役にも立てません」
「そうだな」
 呪いは高度な術だ。四百年前は確かに術者として名をはせた疾風もそこまで専門的な知識は得ていない。
「私達は私達で出来ることを。今回の犯人を見つけることが、今私達が出来ることですからね」
 そう呟く葉月に二人は小さく頷いた。

「じゃあ、今日からしばらく夜の見回りするの?」
「そうなるな」
  後方のツバメを見ずに疾風は答える。今疾風は、井戸の水を使って久しく行っていなかった、鉈の整備を行っていた。
 整備と言っても、ただ研ぎ石で鉈を研いでいるだけなのだが、大枚をはたいて買ったこの鉈は、それだけでも十分払った金額以上の働きをしてくれている。一度柄の木の部分が壊れた時、鉈の茎が見えたのだが、そこに「天国」という刻印がされていた。なかなかの名工なのだろうと、疾風は思っている。
 研ぎ石に井戸の水を注ぐと、同じように鉈にも水を着ける。その行為を行ってから、疾風はゆっくりと鉈を研ぎ始めた。
「じゃあ、うちには?」
「しばらく帰れないだろうな」
 夜行性の獣がいる。
 葉月が村の人間に話したのは、このようなことだ。そのため、夜、出歩かないよう念を押し、葉月、疾風、青年の三人が夜見回りをすると言うことになった。一応、吸血鬼のことは一般の人間には、知らされてはならないことなのだ。しかし、今朝の死体からおよそのことを察している人間も多い。だから、村人は葉月の提案を承諾した。
「ねえ疾風」
「……なんだ?」
 会話は続くが、決して疾風は己の手を休めず、後ろで座って疾風の作業を見ているツバメの姿を見ようとはしない。
「獣って、嘘なんでしょ?」
「…………ツバメは何だと思う?」
 質問を質問で返す。特に話しても問題はないのだろうが、何となくはぐらかしておきたかった。
「判らない。だから聞いたんだよ」
 そうかと呟いて、疾風は再び作業に没頭する。
「疾風は怖くないの?見回りをするのに」
「そりゃ怖いさ。けどな……」
 研磨して出た白い水を洗い流すと、研ぎ具合を見る。
「だからこそ、俺はやらなきゃならないんだよ」
 刃に指を滑らせて鋭さの感覚を確かめ、再び研ぎ石で研ぐ。
「怖いのに?」
「ああ。俺はな、どうしようもなく苦しんで、手に入れようとしたものを手に入れられず、のたうち回って死ぬことを臨んでいるんだよ」 
  そう、それが疾風の臨み。吸血鬼となった疾風の罪の購い方だった。
「死ぬことを臨んでいるの?」
ツバメの声が、すっと己の内に入るのを感じる。ほんの一瞬手を止めるが、直ぐに再開した。
「……ああ」
「……私は、死なんて臨まないよ」
「だろうな」
「じゃあ、何で疾風は死を臨むの?」
 今度こそ、疾風は手を止めた。そして、振り返り、ツバメを見る。
「俺は、たぶん…………許してもらいたいんだろうな」
「許して……もらう。誰に?」
「……さあな。人か神か。それすら判らないが…………」
 一度鉈を見下ろす。研いだことで刃先には銀色の輝きが戻り、その光は疾風を見つめているようだった。そして、もう一度ツバメにむき直す。
「欲しいんだよ。『終わり』がな」
 ツバメは無表情でこちらを見ている。自分は一体どんな顔をしているだろう。疑問には思ったが、気になりはしなかった。それは判らないことだから。だから疾風は気にはしない。己の限界を知っているから。そしてこれが己の限界だから。

    今宵の夜も月見には良い夜だった。それは吸血鬼にとっても良い夜だ。吸血鬼は水に弱い。だから雨が苦手なのだ。それに合わせて、吸血鬼の力は何故か月光によってわずかながら強力になる。原因は分からないが、満月の時の絶好調なあの時は、まさに快楽だと疾風は思う。何者も自分を縛り付けるものが無く、自分自信も押さえられないような開放感。獰猛な一匹の獣になったような感覚に墜ちる束縛の遮断と、同時に沸き起こる何もない孤独感。あれは癖になるさ。疾風は呟く。
 今日から夜が変わる。疾風はそう思った。
「それじゃあ、村周辺の見回りを一人、火の番を一人、仮眠を一人として後は一刻づつ交代で行きましょう」
 村の中心に大きな火を置き、その光に揺れながら三人の姿があった。

 一人は神主の姿をした青年。葉月。
 一人は名も無き不死者の青年。
 一人は夜の存在、吸血鬼である疾風。

   性格も宿命も生き方も違った三人は、ここで頷き合う。共通の仮想敵を前にして。
「敵を見つけた場合は?」
 疾風は火の向こうにいる葉月に訪ねる。葉月は最初からその問題の解答を用意していたかのようによどみなく、応え始める。
「出会ったと同時にこれを使ってください」
 袂から球体の何かを取り出し、二人に近づくとそれぞれ一つづつ渡す。
「これは?」
「『火縄』と呼ばれる人具です。強く握って投げると地上から空にかけて紅い光が伸びる道具で、主に緊急の連絡用に使われます。これを投げて知らせてください」
「判った」
『火縄』を懐にしまい感触を確認する。少し大きい感じがしたが、邪魔になるほどではない。
「…………」
 無言の青年はただ頷く。
「では、見回りを始めましょうか」
  それが合図になり、再び三人は頷き合った。

 一刻、一刻と時間が過ぎていく。目印の火に薪をくべながら疾風は無言で時折空を見上げていた。無言になるのは他に人がいないからであり、空を見上げるのはいつ「火縄」が打ち上げられるか判らないからだ。
「…………」
 パチパチと火から音が聞こえる。紅い炎がゆらゆらと揺れて、それは不思議な何かを見せてくれるかのようだった。
 しかし、疾風にはそんなものは見えない。見えるのはただの炎だけだ。そして現実だけ。
 だから、直ぐに後ろからやって来る足音を疾風は決して見逃さなかった。ついでに言えばその足音が青年のものであることも直ぐに見当がつく。
「疾風……」
 後、三歩で疾風に辿り着くところでようやく青年は声を上げた。その声は非常に聞きにくく、まるでその距離が聞こえる間際の射程であるかのような声だ。
「時間か」
「ああ」
 二人にそれ以上の会話はない。疾風は重い腰を上げて背を伸ばす。そして青年の方を見た。炎の光のせいで紅く染まった青年の顔には、やはり表情はない。それを見つめ、疾風は歩き出す。何も言わず、何も語らず。
「疾風」
 そこで立ち止まる。
「……お前は知ってるんじゃないのか?俺のこと……」
「…………」
 それは初めての問いだった。青年の顔を見ず、ただその場に立ちつくす疾風。そしてその後ろ姿を何の感情も見せずに見続ける青年。
「…………」  
「…………」  
「…………」  
「…………」  
 長い沈黙。
「…………」  
「…………」  
火の粉が舞う。
 疾風は一度目を瞑り、そして、再び歩き出した。

 昔、疾風が人間であった時に疾風は一人の少女に出会った。正確には探し、見つけたと表現した方が正しい。疾風はその少女を見つけ出し、そしてこれを捕獲することを目的としていたのだから。少女はこの世界で唯一「不老不死」を体現した存在だった。彼女以外にも不老不死と呼ばれる存在はいくらでもいるが、それは不完全なものでしかない。吸血鬼も不老不死の一つに数えられてはいるが、実際は年を重ねれば肉体は腐敗していくし、精神を破壊されていくので完全とは言えない。他にも弱点はいくつもあり不老不死と言われている割りには不都合なことばかりだ。
 古来人間は、いくつもの方法で不老不死を体現しようとした。絶対法則である「死」を克服しようとし続け、足掻き続けたのだ。だが、それらはことごとく失敗し、今日でも不老不死の事例は彼女の他に存在しない。
 時の権力者は、彼女を執拗に狙い続けた。力を手にしたものが次に欲しがるのは「永続性」だ。その力が何時までも有効であり、そして決して衰えないように。その到達点こそが「不老不死」なのだ。
 そして疾風は見つけた。幾人もの追っ手を惨殺してきた美しき不老不死者を。
 その目は、幾重もの悲しみを織り込んだ銀色をしており、その手は血に染まっているとは思えないほど白く透き通っていた。純白な術師衣装に身を包み、長い銀色の髪は月に照らされ、身震いしそうなほど美しかった。

「あれは、こんな夜だったかも知れないな…………」
 夜道を歩きながら、疾風は呟く。それは自分が人間であった頃の最後の記憶。不老不死者の少女と出会い、そして自分が吸血鬼になった頃の記憶だ。
 そして、先ほどのことも思い出す。
 初めて、青年は自分に己の関係性を疑問にした。何度もその機会はあったはずだったが、ここに来てそれは思いから言葉へと変わったのだ。
(潮時だな……)
 己の感傷を持て余して、彼を連れて行く時間は当に過ぎていたというのに。
(結局、俺は彼女のことを言い訳にして、あいつとの旅を楽しんでいたんだろうな)
 そう、楽しかったのだ。無口なあいつを連れて歩くことは決して苦にはならなかった。それどころか今まで四百年間たった一人で旅をしているのとは違った新鮮さが味わえ、彼の答えを先延ばしにしてきたのだ。
(だが、もうそれも終わりだ)
 話さなければならないのだろう。たぶん青年は彼女の行く末を知っている。そして彼と彼女の間に何があったのかもある程度の予想が出来る。
(あの時、あんな事を言っていたのにな……)
 私は誰も愛さないと言った、彼女。しかしそれを継承した彼の存在。
(あいつとの旅もここで終わりだ…………)
 自嘲する。寂しいなどと二度と起こさぬ感情だと思っていたのに。しかし、その感情に囚われているのは一瞬のことだった。
「!?」 
 べっとりとした嫌な気配を感じ、疾風は直ぐにそちらへと視線を向ける。同時に左手で鉈を、右手からは火縄を持ち、それに対峙した。
 それは、森の闇に同化しているように存在していた。
目があったと同時に、全身に緊張と、訳も分からない嫌悪感に襲われる。そいつが空気を吸っているだけで許せないような憎悪と共に。
 知っている。
 疾風は直感した。そしてそいつが一体誰なのか、頭よりも先に体で理解した。四百年前に刺された部位がズキズキと痛みを上げる。傷などとうの昔に完治しているというのに。
「やあ、兄弟。久しぶり」
 狂った吸血鬼は、四百年前と同じ様にそう告げる。
「久しぶりだな…………鴉」
 四百年前に疾風を殺した男の名前。それを聞くと、狂った吸血鬼、鴉は口の両端をつり上げ、狂気としか言いようのない狂った笑みを疾風に見せた。

闇久の糸〜十一章「反転悲劇・2」〜終


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