期会騒乱・2



「首を切った場合、再生するのは胴体からかそれとも首からか?」
 おもむろに疾風はそんなことを聞いてみた。青年を抱えているのが嫌になった、というのが本音だ。折れて横になっている木を飛び越えたが、速度は全く変わらない。あれから半刻ほど走り続け、あの二人が追いかけてくる様子はなかった。かと言って安全というわけでもないのでもうしばらく走り、策を講じるというのが疾風の考えだった。
「両方ある。ただ傷のない方が優先されると思う」
 青年の怪我は全身にある。今切ったらどちらが優先されるのだろうか。
「もしかして、お前が二人になるって事はないよな?」
海月くらげみたいにとは流石に言わない。邪魔な枝を払いのけ、次に迫ってきた太めの枝は片手で取り出した鉈で切り落とす。
「たぶんない。それに……」
 言葉が聞こえないと思った次の瞬間、疾風の肩が軽くなる。青年が自ら下に落ちたのだ。
 慌てて立ち止まる疾風だが、青年はきちんと着地していた。

「もう完治した」

 そう言って立ち上がった青年には、先ほどまで受けた傷が一切見あたらない。
 これには疾風も目を疑う。
「嘘だろ。神経もか?」
 言ってみたが青年が立っていると言うことは、少なくとも足への神経は回復していると言うことだ。わずか半刻という時間で、人なら三度は死に、更に重度の障害を残してしまう大怪我が、この男にとっては擦り傷よりも早く治ってしまったのだ。
「問題ない」
 疾風のそんな内心の動揺をよそに、青年はすたすたと歩き始めた。しかも、疾風が走ってきた方向とは逆の方向に。
 惚けていた疾風はすぐに我に返って、青年を追いかける。
「ちょっと待てよ。何処行くんだ」
 青年の肩を掴んで彼の歩みを止めた。青年は抵抗も見せず振り返る。
「村に行く」
「馬鹿! んなことしたらまたあいつ等と鉢合わせするだろうが!」
 あの二人はおそらく村へ立ち寄り、充分に休息を得てから再び追ってくるはずだ。
「……俺は村に行かなきゃならないんだ」
 それはまさしく意志だった。完全に受け身であった彼がここで反抗することに驚く疾風だったが、今は憎たらしくしか見えない。
「だからって今行く必要はないだろ。折りを見て、少なくても陰陽寮のあの二人が帰ってからでも遅くないはずだ」
 それを聞いて青年は立ち止まった。疾風が言っていることが正論だと言うことが分かったからだろう。
「……そうだな」
 青年は納得したらしく頷く。何とか青年を言いくるめた疾風は、ようやく落ち着いてその場に座り込んだ。何しろ青年を負ぶって半刻走り続けたのだ。
 とりあえずようやく落ち着いて休める。
 青年はあたりを一度も渡して危険がないことを確認すると疾風と対峙するように座った。
 彼の場合は、疾風につきあっているだけだ。彼は非常に特殊で、どんな疲労でも一定時間経つと一気に回復してしまう。怪我なども同じで、時間とともに傷の治りの経過などお構いなしに完治するのだ。今回、あれだけの大怪我をしていたために疾風は回復にさすがに時間がかかるだろうと思っていたのだが、そんな想像は一瞬にして粉砕されてしまったわけだ。
「しかし、厄介だな」
 竹筒を取り出してふたを開ける。中には完全に固まった血が詰まっていた。疾風の食事だ。
 疲労を伴うと当然『食い溜め』していた分を多く消費してしまう。
 その辺にあった小枝を掴むと、固まった血をほじくり返す。固形化していた血は砂状に砕けていき、ある程度その血の砂が溜まると疾風はゆっくりと竹筒を傾け自分の口に流し込んでいく。
「陰陽寮の人間か……」
 唾液で固形化した血を液体に戻し、喉へと流す作業を続けながら疾風はつぶやいた。
 別にそのつぶやきに答えを求めたつもりはなく独り言は疾風の癖だった。
 その独り言に時々青年が答え、このつぶやきには青年は返す。
「化物の中で最も会ってはいけない人間……」
「ああ」
 疾風は頷いた。
 『妖』と『化物』は違う。『妖』は生態系の確立した純然たる『生物』なのだ。
 そのため人間に害をなす『妖』に対しては人間は措置を施すが、普通に生息している『妖』について、人間は関知しない。しかし、『化物』は違う。『化物』はこの世界の歪みによって生まれたいわば『存在してはいけない存在』なのだ。
 存在そのものが外法であり禁忌。そして、その教えを伝えているのが『陰陽寮』の人間だ。
 そのため、陰陽寮の人間は決して『化物』を許さない。特に吸血鬼は『外法使い』のなれの果てだ。
 外法使いと言うだけで死刑に処せられる罪なのに、その上『化物』ともなれば殺すだけでは生ぬるいと言わんばかりに『過剰殺』を行う。
 それが、陰陽寮に勤める人間の義務なのだ。
「全く……厄介だぜ」 
食事を終えて立ち上がる。吸血鬼は非常に現金で、食事をすればすぐにそれは自らの燃料として供給されるのだ。ただし、吸血鬼は食事として血を供給するが、逆を言えば血以外のものは何も摂取できない。
「こうなったら、しばらくここら辺で野宿になりそうだな」
「いつもどおりだろ」
「そうだな」
 化物と人間ではない青年は、極力人里を離れて生活しているのでいつも通りと言えばその通りだ。
「しかし、あいつら一体何でこの近くに現れたんだろうな?」
「疾風を探してたんじゃないのか?」
「んなわけないさ。吸血鬼狩りなんて今はやってないし、何よりここは陰陽寮のある都から、かなり距離がある。たぶんあの二人は別の用事でここに来て、それで俺達に出くわしたって感じだろうな」
 疾風は言いながら、竹筒を腰の紐に絡め、再び歩き出す準備を整える。
 青年も準備は必要なかったので、彼の準備を待って立ち上がった。
「さて、それじゃあ適当なねぐらを探すかな」
「ああ」
 二人が動き出そうとした瞬間、突如草木が擦れ合い、ざわめきが二人の耳に届いた。
「!」
「……」
 二人はそちらの方向に体を動かすと、疾風は右手に短刀、左手に鉈をそれぞれ抜いて構え、青年は右手で刃を抜いた。
「全力で走ったぜ。普通の人間が追いつくか?」
「俺も知らない」
 吸血鬼の基本的な身体能力は、あらゆる面において人間を軽く凌駕する。それこそ人間がどんな鍛え方をしても勝てないほどの力を、何の苦労もなく手に入れるのだ。当然、その力の代償は『血の呪い』や『過敏神経』などだが、吸血鬼が人一人を抱えたという重荷を持っていたとしても、人間と走り合って負けるはずもない。ましてや、疾風は半刻走り続けたのだ。
 人間なら数時間を要してもおかしくはない。
 草木の音はこちらへと近づいてくる。二人は体を緊張させ、いつでも動かせるように体勢と整えた。
「来る!」
 音の正体がこの場へと転がり込んでくる。
「きゃっ!」
 それはその場へとたどり着くと転倒した。巫女装束とは到底かけ離れた、薄汚れた着物を着た少女。それが転げ落ちてきたものの正体だった。 
「な……なんだ?」
 転んだ少女の拍子抜けして、疾風は軽く体勢を崩してしまった。
「…………」
 青年は何も言わず構えは解いていない。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 少女の息づかいは荒く、ここまで必死に走ってきたことが分かる。下だけを向いてまだ二人のことには気づいていない様子だ。
「なぁ、あんた」
「!!」
 疾風が我慢できずに声を上げると、突然少女は顔を上げて後ずさる。
 その表情から何かに怯えているのは明白だった。
「あなた達、誰!」
 問いかけとも悲鳴とも受け取れる少女の叫びに二人は顔を見合わせる。
「怪しい奴じゃない……って言って通じるか?」
「…………無理だと思うが」
「だよなぁ」
 妙に納得する二人を尻目に、少女はあたりを見渡す。
「何をそんなに慌ててるんだ?」
「!」
 疾風の問いかけに再び警戒心を強める少女。これでは何時まで経ってもらちが明かない。
「こうしよう。君は逃げる。で、その前に何に追われているのか俺に教える。俺達はそれを何とかする。これでどうだ?」
 彼女の警戒心を押さえるために武器をしまい、一歩前に出る。表情はいつもと変わらない、飄々とした捕らえどころのない顔だ。普通、この顔が交渉には最も適していることを疾風は熟知している。
 この少女も同様で、先ほどよりも警戒心を弱め、疾風の言葉を聞くほどの余裕は出てきたようだ。
「何で追われてるって分かったの?」
「それは簡単な事さ。君が必死で走ってきたからだ。走るってのは目的地に早く着こうとする意味合いと何かから遠ざかりたいという意味合いがある。あとは君の表情を見れば前者ではなく後者、しかも、かなりせっぱ詰まっているぐらいは予想できるわけだ」
 あえて自分の持ち札を全てさらし、彼女の信頼を勝ち取ろうとする作戦。
 これはかなり功を奏した。
「分かったわ。でも、あなた達も逃げた方がいいと思う。一応かなり距離を離したけど……」
一応、こちらに悪意がないことを察してくれたようで、少女は周りを気にしながらも少女は二人に近づいた。
「まあ、逃げるのはそれが何なのか聞いた後だ。なぁ?」
 今度は青年に顔を向ける。青年は何も言わない上に、動きも見せなかったがこれは肯定でも否定でもないので、疾風はそれ以上追求はせずに再び少女に向き合う。
「で、君は何に追われてるんだ?」
「私も詳しく分からない。でも、とても大きくて黒い変な生き物だった」
「ふ〜ん」
 疾風は頭をかいてしばし黙考する。しかし、材料は決定的に不足していた。
 これでは普通の動物なのか妖なのかさえ分からない。
「さっき、かなり距離を離したって言ったけど、どのくらいの足の速さなんだ」
「……え〜と、私が小走りするぐらいかな。それ以上早くならなかった。それより速く逃げましょうよ。こうしている間に来るかもしれないし」
「そうだが、闇雲に走るのもかなり危険だ」
 何よりあの二人に見つかるのだけは避けたいのだ。
「疾風。何なら俺が囮になるが」
「そんな危ない事しない方がいいよ! とにかく逃げましょう!」
 不死身である青年が何に対して危なくなるのかは分からないが、それを知らない彼女にとやかく言う気にはならない。疾風はため息を一つついて、現状で最もやらなければならない索敵を始めることにした。
 少女がやってきた茂みの方を睨み、神経を集中させる。吸血鬼は五感も常人を遙かに凌駕する。ただし、余計な情報も多く入ってくる上にそれを遮断する術がないので、睡眠などは非常に大きな障害になった。
 その研ぎ澄まされている五感を一点に集中させる。
「いた…………」
 今はまだ聴覚でしか捉えられないが、確かに何かがこちらに近づいてきていた。
「いたって、何が?」
「君が言ってた何かだ。この調子だともう少しでここまで来るな」
「ええっ!? 速く逃げないと!」
 少女はもう待てないとばかりに慌てふためく。
「名無し。彼女を連れて逃げろ。俺は確かめてみる」
「……殺る気か?」
「出来れば殺りたくはないさ。まあ、臨機応変だな」
「…………わかった」
「え? え?」
 二人のやりとりを、何も知らない少女は疾風と青年を交互に見る。
 しかし、説明などされるはずもなく、少女は何も言い出すことは出来なかった。
「やばくなったら呼ぶ。行け」
「……分かった」
「え?うわっ!ちょっと!」
 青年は頷くとすぐに『潜在覚醒』で彼女を担いで、その場を離れていった。
 少女は暴れるが、青年の防御は固くそのまま疾風の視界から消えていく。
「……さてと」
 疾風は再び鉈と短刀を取り出し、迫ってくる物体に向かった。

 それは、疾風が目の前に現れると止まった。
 黒い大きな物体。それは確かに少女の言ったとおりだ。しかし、本当にそのままの通りだとは思わなかった。
 黒い大きな物体。それ以外に形容することの出来ないそれは、その体に一対の光、本来目のありそうな場所だけを残し黒い霧に体を覆われている。
「何だ……こいつは?」
数百年生きている疾風でも、こんなモノを見るのは初めてだった。
「人形でもない。妖でも化物でもないな」
 未だ動きを見せないそれを疾風は慎重に伺う。だが、結局のところ何も分からないと言うこととが分かっただけだ。しかし、そこで唐突に黒いものは動き出す。
 疾風の方にいきなり飛んできたのだ。決して早くはないが、その大きさが突然動き出すと非常に圧迫感がある。
疾風は一応警戒だけはしておいたので、それを難なく横へ移動してやり過ごす。
 そこでよける瞬間、疾風はそれに軽く触れた。
「ん……」
 触れた手を見ると、自分の手がしわくちゃになっていた。だが、それはすぐに再生される。
「まとわりついてる怨念が喰われた?」
 吸血鬼の周りにはいつも「怨念」がまとわりついている。
 これが吸血鬼が吸血鬼となる由縁なのだが、それが一瞬奪われたと言うことは、相手も同じ種類という事だ。
「同じ素材で出来ている。こいつ視界で確認できる怨念に縛られてるってのか」
 黒いものはしばらく突進を続けると止まり、疾風にその一対の光を向ける。
「どうやら俺を敵と認識したみたいだな」
 鉈をしまい短刀を利き手で逆手に持つ。怨念に支配されているものにまともな交渉など無意味だ。

 ―― 殺るしかない。

 疾風は一瞬でそう判断すると、精神を研ぎ澄ませる。

 まだ青年には話してないが、吸血鬼になって特殊な技を覚えた。自分の周りにまとわりついている怨念。これは自分が死ぬ淵まで苦しまなければ消えることはない。
 ならば、その力を代償にして何かの術を作り出すことは出来ないか。
 自分のせいで死んだ人間を、再び自分のために酷使するという非人道的な術だが生憎と疾風は人間ではない。
「我が肉体を縛る幾千の怨念よ」
 詠唱を開始する。疾風の周りに前にいる黒いものと同様の黒い霧がうごめき始める。
 それは、疾風が術の代償として殺してきた人間の負の念。いかなる悪党を殺しても恨まれるのは道理だ。疾風が殺してきたのは死んで当然の人間ばかりだったが、怨念は疾風につきまとった。
「我が身はここにあらず。恨みし其の身は我が眼前にあり」
 黒い霧が疾風の体を離れて一線の道を造り出す。その道は黒いものまで伸びる。
 疾風は腕を伸ばし、目標を定め声を張り上げた。
「無数、砕!」
 黒い線は疾風の手元から膨張し、そのまま黒いものに接触する。そして黒いものをも膨張させ
「……………!」
 黒いものは何も言わず大音量と共に爆砕した。黒い肉片があたりに飛び散り悪臭を放つ。だが、疾風は飛び散った肉片を鋭く見つめ、再び詠唱に入る。
「我が怨念よ。解き放てその怒りその悲しみ。我はそれを抱きかかえよう」
 肉片は飛び散ったが、もぞもぞと動き出し元に戻ろうと、元々黒いものがあった場所へと移動を開始している。だが、集まる前に疾風の詠唱は終わっていた。
「無数、乱!」
 疾風に取り憑いている黒い霧がいくつもの線になると、鞭のようにしなり周りを突如切り裂き始まる。黒いものの肉片を切り裂くだけでは飽きたらず、周りの木を傷つけ時には切り倒す。 
 それは竜巻のような暴君だった。あまりにも突然に現れて、あるもの全てを薙ぎ払う。
 時間にしては数秒だったが術が終わった後、残っているものは中心にいた疾風だけだった。
 周り一体の木は全て切り倒され、ぽっかりと場違いな空間を作り上げている。
 疾風は周りを見渡し黒いものがいないことを確認し始める。視界には捉えていないが、まだいるはずだ。しかし、そこで疾風は突然膝をついた。
「!」 
 胸を押さえて胃にあった物を吐瀉する。吐瀉したのは黒い液体だけだ。
 そして、疾風は次に訪れる、恐ろしい感覚に身を縮める。
「う、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 うずくまり、体中から来る痛みに耐える。その痛みは全身を巨大な何かですりつぶされているようだった。いや、そんな生ぬるいものではない。所々の傷口に酸をかけられたような感覚や、頭部に穴を開けられそこから針を突き刺していくなど考えられる苦痛全てを永続的に受け続ける感覚。
 怨念を利用した術の代償。それがこの痛みだった。ありとあらゆる苦痛が怨念によって発せられ、怨念によって『生かされて』いる吸血鬼はこれに耐えるしかない。だが、怨念は普段からそのような事は出来ない。因果応報がなりたたねば、こうはならないのだ。
 人ならばとっくに発狂死してしまうほどの苦痛は、吸血鬼であるがゆえ一切逃げることが出来ず、気絶すらさせてくれないのだ。
「ぐわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
叫ぶ。だが、その永遠とも思える痛みはやがて引き始める。怨念の怒りが収まりつつあるのだろう。
 痛みが和らぐにつれて叫び声は小さくなっていった。

 これが疾風の奥の手だった。自分しか使えないために、それらに細かな名前を付けてはいない。
 術と同じ感覚で使うが、術とは違い怨念を力にするため、術特有の定数番を使わないと言う意味から『無数』と名付けていた。

 涙や唾液を垂れ流して、疾風はようやく自分を思い出し今まで何をやってきたのか思い出す。
「はぁ、はぁ、はぁ……二度と使わねぇ…………」
使った後、必ず言う台詞を言ってふらふらと立ち上がる。先ほどの技でかなり生命力を消費してしまった。『化物』からの生命力の供給は効率がかなり悪いので、『血』とは別に定期的に取る必要がある。
「くそっ、こんな時に……」
 このままだと再び苦痛がやってくる。吸血鬼は空腹の代わりに苦痛に襲われるのだ。
 その『乾き』から逃れるために血を吸い生命力を奪う。結果的にそれは永遠の牢獄に閉じ込められたものだ。しかし、彼らはそれに気づくことはない。
 それこそが彼らの償いなのかもしれない。

 あたりを見渡す。すると何か動くものを見つけた。
 それは、先ほど八つ裂きにした黒い何かだった。ただ、大きさは先ほどの数十分の一ほどまで小さくなっている。『無数』の攻撃によってによって怨念が満足したのだろう。
「…………」
 疾風は足を引きずりながらそれに近づく。黒い何かは、その場でもぞもぞ動いてどこかへ移動しようとはしていない。だから、疾風はそれをすぐに掴むことが出来た。
 今や自分の顔程度しかないそれを疾風は見つめる。一対の光もなく、それは最早ただ生きるだけの単細胞生物程度にしか見えない。
「…………」
 考える暇もなく、疾風はそれにかぶりついた。取り込むに至っては怨念も生命力と変わらない。しかし、普通の生命力を奪う行為とは違って取り込むと言うことは、完全に対象を捕食することだ。疾風はそう言った考え半分と、ただ単に吸血鬼の本能としてそれを食った。味など分からない。ただ『生かされ』たいがためにそれを食らった。

「疾風……」
 それを食いきったあたりで後ろから声が聞こえた。疾風は振り向く。
「お前、逃げたんじゃないのか?」
 後ろにいたのは刃を持った青年だった。相変わらず無表情だが、あたりを見渡して警戒している。
「叫び声が聞こえて戻ってきた」
「ああ、あれか」
 確かに『無数』を使った後あまりの激痛に声を大にして叫んでいた。たしかに、あれほどの大音量なら逃げていた青年にも聞こえていただろう。
「相手は?」
「相手? ……ああ、あの黒いのか。あれなら食った」
「食った?」
「ああ」
 別に言い訳などしなかった。疾風は素直に事実を述べる。青年は何も言わずに疾風を見て、やがて再び周りを見渡す。薙ぎ払われた木が気になったのかもしれない。
「これはあんたがやったのか?」
「さあな」
 曖昧にお茶を濁し、今度は疾風が質問する。
「それより彼女はどうしたんだ? 抱きかかえてっただろ」
「気絶してる」
「何で?」
「逃げてる途中で木にぶつけてしまった」
「…………やれやれ」
 ずいぶんと間抜けな話だ。まあ、過ぎた事をとやかくは言わない。疾風はため息をつき、今後どうするかを頭の中で計画する。
「とにかく彼女が起きるまでは連れて行くしかないな。まあ、彼女が起きたら村にでも送るさ」
「…………村に行くのか?」
「行くしかないだろ。この調子じゃ」
 陰陽寮の巫女二人、化け物かどうかもわからない謎の黒いモノ。その連戦に重ねて分の悪い話だが、そうするしかなさそうだ。
「それに、村で少しやらなきゃならないことが出来たしな」
「やらなきゃならないこと?」
「ああ。さっきの黒いの。あれは怨念の固まりだった。まあ大した量じゃなかったが、普通怨念は自然にああはなったりしない。誰かが操作しない限りな」
「誰かがあれを作ったのか? 何のために」
「さあな。とにかく村に行けば何か分かるかもしれない」
疾風は短刀をしまい、溜息をつく。これで自分にも村に行かなければならない理由が出来てしまった。

 糸に導かれながら二人は確実に村へと向かっていた……

闇久の糸〜五章「期会騒乱・2」〜終
 

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