生前回帰・1
吸血鬼。
「外法」と呼ばれる術を使い続けた結果、人間として死ぬことも適わず、殺した人間の怨念によって「生かされている状態」になった者。
その人間は最早人間ではなく、化物として死んでいない状態を続けるしかない。
そして、やがてその心までも化物へと変えていくのである。
「ひぃ!ひぃぃ!」
それは男の悲鳴だった。
しかし、男の悲鳴にしてはその声色は高い。
だが、今はそんなことをとやかく考えている状態ではない。何しろ、それは悲鳴なのだから。
「助けてくれ!誰か!誰か!」
男は逃げ続ける。これほどの大声を上げて逃げ続けるも、その声は誰の声にも届くことはない。
村の真ん中、しかも、男が寄りかかっている場所は民家だ。何事かと誰かが家から飛び出して良いものなのだが、まるでその男の声だけが別の世界に行っているようで、それ以外の全てのものは静寂につつまれていた。
「助けて!助けてくれ!」
戸を叩く。
しかし、家からは何も聞こえず、誰かが自分の声を聞きつけて扉を開ける雰囲気など、微塵もない。
男はそれにも構わず戸を叩き続けた。あまりにも力を入れすぎたため、古くなった戸はその加重に負けてうち破られる。自分の命が賭かっている状態、たとえどうであれ、死ぬよりはましだ。
少しの安心で理性を取り戻した男は、次の瞬間鼻をつまんだ。あまりにも強烈な匂いが男の鼻孔を刺激したのだ。それは血の臭い。
男は暗がりで見えなかった部屋を注意して見つめる。
「!」
この家には確か三人住んでいたはずだ。男も何度かこの家に呼ばれたことがある。
この家の主人は自分と同じ年に生まれ、子供の頃からよく遊んだ仲だ。そして、隣の村から嫁いできたこの家の妻は、良くできた妻で村一番の器量好しであった。そんな二人の間に生まれた子供は医者になりたいと言って二人を困らせている事を最近聞かされた。
そんな一家が何故か血の海に横たわっている。
一目で分かった。三人は既に……
「あ……ああ…………」
先ほどの恐怖と取り戻したはずの理性はこの衝撃で全て吹き飛び、悲しみが支配する。
そして、次に出てきた感情は怒りであった。
一体、誰がこんな事を
どうしてこの三人が死ななければならないのか
彼等が一体何をしたんだ
ただ一生懸命に生きていただけじゃないか
それなのに、それなのに
男は怒りに我を忘れて涙を流す。そして後ろにそれがいることに気づかなかった。
「!」
背中に強烈な痛みを感じて男は振り返る。そこにいたのは男を恐怖に陥れた存在だった。
「逃げるのは止めたのか」
そいつはそう言って笑った。この状況で笑ったのだ。男は先ほどの恐怖を全て怒りに変えた。
こいつだ。こいつが全てやったんだ。
何か証拠があった訳ではない。だが確信はあった。恐怖は最早、微塵もない。
背中の痛みは感じなかった。
「何だその目は?もしかして俺に怒りを覚えているのか?馬鹿馬鹿しい。お前達は俺の餌だ。餌は餌らしく雁首揃えてじっとしていればいい」
そいつの声は男には聞こえない。怒りで気が狂いそうだが、頭は思った以上に冷静に働く。こいつを素手で倒すことは出来ない。そう理解している男は動かないそいつを一時的に無視して横に飛んだ。この家の間取りは自分の家と同じで、何かを置いておく場所も同じだ。
だから、農具が玄関の横にあることも理解していた。
目的のものは直ぐに見つかった。横目で既に確認していたから、素早く手に持ってそいつを見返す。
「馬鹿馬鹿しい。そんなもので俺と戦うつもりか。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい」
そいつは無防備にまだ立っている。殺すなら今しかない。男は手に持った鍬を振り上げそいつに向かった。
なりふりなど構っていられない。こいつを殺せるならいかなる手段も講じるつもりだ。
鍬の刃がそいつに届く範囲まで届く。男は何の躊躇いもなく鍬を振り下ろす。
「馬鹿馬鹿しい!」
「!?」
男の視界が真っ赤に染まった。何が起きたか全く理解できない。ただ異様に寒かった。
自分がどうなったか確認する。自分は倒れている。寒い。どうしようもなく寒い。
冬でもないのにどうしてこんなに寒いのだろうか。男は考える。だがその考えは途中で止めた。
男は次にどうすればあいつを殺せるか考える。たぶん先ほどの方法は失敗したのだ。だから自分は倒れている。
だが、まだ意識はある。大丈夫だ次の手は絶対に避けられない方法にすればいい。
後ろから攻撃すれば流石のあいつも避けきれないだろう。
しかし、どうしてこんなに寒いのだろう…………
「餌は怯えて俺に殺されればいいものを」
そいつは倒れている男を一瞥すると、男を蹴り上げた。絶命している男を蹴る理由など無かったのだが、そいつはその男に怒りを覚えていた。
最初はおもしろかった。少しばかり『力』を見せただけなのに、あの怯えようはそいつの心を満たした。
しかし、この家に入ってから男は急につまらなくなった。
いきなり自分に刃向かってきたのだ。そいつには理解できない。
何故恐怖したものがあのような目をして自分に刃向かってきたのか。
「つまらない。つまらない。つまらない」
男を蹴り続ける。体中の骨が砕かれ腕や足はあり得ない方向に曲がる。
だが、そいつはそんなことなどお構いなしに蹴り続ける。
「つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない……」
一体どのくらい蹴り続けたか分からない。既に漆黒の闇は朝日の前に消えようとしている。
狂ったように蹴り続けていたそいつは、突如その蹴りを止めた。
「もう寝るか」
欠伸をする。最後はつまらなかったが久しぶりの『狩り』は楽しかった。
村中全員の血を飲んで一番美味しかった奴は骨までしゃぶってやった。最後のあいつの血はもう飲む気はない。
何より狩りをつまらなくした奴の血など飲んでもつまらないだけだ。
一ヶ月ぐらいは血には困らないだろう。たっぷりと食いだめをしておいた。
「次はどの村にするか」
そいつはぼんやりそんなことを考える。それは夜になったら決める事なのだろう。
自分と同じあの漆黒の闇の間に。
そいつは外に出る。既に闇の世界は消えていた。そいつは気分を悪くしてすぐに適当な家に中に入り込む。
その家の戸を閉めて仮の闇を創り出した。その家にあった死体を投げ捨て、自分の寝床を用意しそいつは寝ころぶ。
食事の後の睡眠は心地よい。男は目を瞑った。泣き叫ぶ女や命乞いをする男が目に浮かぶ。
思わずそいつは微笑んだ。何て素晴らしい夜だったんだろう。
あの阿鼻叫喚を思い出しながらそいつは深淵へとゆっくりと落ちていった。
狂気の吸血鬼はまだ知らない。
彼にも黒い糸が確実に存在していることを……
闇久の糸〜一章「生前回帰・1」〜終