「ガ…ガ……」
 そいつが何を呻いたのかは男には関係なかった。関係があるのは、そいつに突き刺さっている短刀が自分の意志で突き刺していると言うことだけ。
 男は自分の意志でそいつを殺そうとしている。
「グ……ノ…ガ……」 
その声は既に声ではなく、息を吐くと同時に行われる声帯の震えのようだった。
 最早こいつが『生きる』事は叶わないだろう。男はそう思う。だから男はこう言った。
「すまんとは言わん。だから俺を恨むんだな」
短刀を引き抜く。筋力で収縮していたその刃を引き抜くのは並大抵の作業ではないが、男は片手でそれを行う。短刀には何故か血が一滴も付いていなかった。
 そして、そいつは短刀を引き抜いたと同時に、その場にゆっくりと倒れ込んだ。最早存命できるほどの怪我ではないことは分かっている。
 しかし、最後の力を使ってそいつは男を見た。その瞳は何を物語っているのか男には分からない。
 だが、男は怯むことなくそいつの瞳を見返した。そいつの目は憎悪や恐怖に瞳を輝かせ、男は絶望と後悔で瞳を濁らせる。そして、そいつの瞳はそのままで動かなくなった。
「…………」
 そいつが動くことはない。朽ちてこの大地の養分となるだけだ。
 男は短刀をしまうと新たに腰から鉈を取り出す。刀身のさびからその古さが伺えるが、刃の部分は白銀の輝きを残し、手入れがされていることが分かる。
「弱肉強食。つまらない言葉だな」
男はそいつの首に鉈を振り下ろす。鉈はそいつの骨の処まで到達すると止まり、そこから血が止めどなく流れ始める。
「全く難儀な体だよな」
 男は鉈を丹念に拭いて腰に戻すと、そいつの首に顔を近づける。一瞬躊躇ったが、意を決して男はそいつの首にかじりついた。

 もしこの時、他の誰かがいたら男の光景に目を疑っただろう。
そして、その誰かが博識であったなら間違いなくこう呟いたはずだ。

吸血鬼だと…………

 まずい食事を終え、男はゆっくりと立ち上がる。顔にべっとりと血が付いているために、手で拭うと手頃な場所を探す。森の中なので特に探す必要もなく良さそうなところが見つかった。軟らかい土で出来た地帯だ。手だけで穴を掘るのは非常に重労働なので、うまい場所を見つけないと作業が辛い。
 幸い、自分が殺した相手の大きさは人間の子供ぐらいなので大して掘る必要もない。
 男は自分の食事のために殺した相手を見る。それは不思議な形をした生き物だった。
 一見すれば熊のように見えるが、尻尾が非常に細く長い。そして熊との違いが如実に表れているのが額の角であった。まるで鹿のような二本の角がその生き物には備わっているのだ。明らかに熊とは違うその生物は、『妖』と呼ばれている不可思議な生体を持つ生物の一種だ。他にも『妖怪』と言われる場合もある彼等は、人間にはない不思議な力を持ち、普段はひっそりと森の中で暮らしている。
 中には人里に現れて悪さをする妖もいるが、それはごく少数でほとんどは人と接触することなく一生を終える。こいつもそうなるはずだったのだろう。
 男は一時の感傷を振り払うように穴を掘り始めた。
 墓を作ることは一度も怠ったことがない。せめてもの弔いをと思い始めたこの墓掘りも、今では大分慣れた。慣れたい作業でもないのだが。そうして掘っているうちに男はある視線に気づいた。
「…………」
誰かが自分を見ている。墓掘りを中断すると、ゆっくりと男はその視線の先を見つめた。手は既に腰に行き先ほどの短刀を握っている。もし、その視線の元が自分を攻撃しようものなら、男は何の躊躇いもなく短刀を引き抜き、相手を殺すだろう。
 しかし、視線の先にあったものは仰向けで倒れ、顔だけをこちらに向けた痩せこけた男だった。
「……何してんだ?」
 男は腰に手をやったまま、その異様な光景を作り出している青年に呟く。
 青年は先ほどからその体勢を維持し続けており、息すらしていないように微動だにしない。
「…………死のうと思ってる」
 かすれた声が帰ってきた。何日この森にこの青年はいたのだろうか。男は考える。
植物のツタが彼の足や体に巻き付いており、数時間といったものではこうはならないだろう。
「あんたは俺を殺してくれるか?」
「は?」
 青年は今にも死にそうな顔つきなのに、瞳だけは力強く光を灯らせている。
 しかし、その瞳とは逆に青年は死を望んでいた。
「そのまま行けば死ぬんじゃないか。間違いなく」
「俺がここにどのくらいいるか分かるか?」
「そうだな二日か三日ぐらいか?」
「五年だ」
「五年!」
男は驚く。その場に動かず五年も生き続ける人間など見たことがない。
 いや、この男がこの世界で間違いなく初めてだろう。自分でもそれほどの時が経てば死んでしまうのは解っている。
「お前、人間か?」
「たぶん違うだろうな。五年もここにいて正直現実を突きつけられたよ。俺は絶対死なない。そんな人間、人間なんて言わないだろ?」
 言いつつ青年は笑った。唇をつり上げた小さな笑みだが、その笑みは男にはどこか狂気じみて見えた。
「あんた、吸血鬼だろ?」
「見てたのか?」
「あれだけ派手な食事見せられたら誰だって気づくさ。それより俺を殺してみてくれないか。吸血鬼に殺されたことは一度もないから、もしかしたら死ねるかも知れない」
「冗談。俺は人を殺さないんだよ」
「妖は殺すのにか?」
「ああ」
 男はそいつを一度見てから再び青年を見る。
「そうか。残念だな」
 青年は、大して残念そうでもなくそう呟くと、首を戻し上を見つめた。
 青年の視界には森の緑と空の青が見えているだろう。このまま放っておくことも出来たが、男は一歩青年の方へ近づいた。このまま放っておくのは始末が悪い。
 それにこの青年には、何か自分と同じ匂いを感じる。同じ『死にたがり』だからとか、そう言うのだけではない何か根本的な共通点。
「なあ、そんなに死にたいのか?」
 もう一歩青年に近づく。
「ああ、死ねるなら……」
 男は青年の虚ろの瞳をのぞき込んだ。
「何だってやってやる……」
「そうか」
 ふと彼の胸元に刃が置いてあることに気づいた。
「こいつは……」 
 触れようとした瞬間。
「触れるな」
 青年の手が男の腕を掴む。五年動いていいないといった割には、骨を砕きかねないほどの強烈な力が男の腕から伝わった。
「大事なものか?」
 触れることを諦め、男は手を引く。
「忘れた。けど、そうだと思う」
 青年は胸元の刃に触れて、その感触を確かめているようだった。
 その刃は先ほど男が使った短刀にどこか似ていた。いくら研いでも切れ味のない銀色をした短刀に。
 そして、男はようやく気づいた。青年とよく似た境遇を持った少女のことを。


「私は死ねないんです……」


 久しぶりに思い出す。男が人間だったとき、最後に助けた少女。
「そう言うことか……」
 男は青年にも聞こえない小声で呟くと、再び青年を見る。
「どうだ。俺と一緒に来ないか?」
「……死ねるのか?」
「さあな。だが、ここにいるよりは可能性はあるぞ。俺は一応『化物殺し』を仕事にしてるから危険には事欠かない」
「『同族殺し』の間違いだろ」
「そう言われると痛いな」
青年は少し考える。だが、その考えは一瞬で終わった。 
「……いいぜ。五年前からどうせ死ねないだろうと思ってたし。ついて行ってやるよ」
 そう言うと青年は腰を上げる。細いツタが引きちぎられ、ボロボロになった彼の服が見えた。
「それじゃあ、お互い名乗っておこうか。俺は疾風。お前は?」
「俺は…………」
「おい、どうした?」
「忘れた」
「は?」
「だから忘れた。名前なんてこの百年言ったことがなかったから」
 恐ろしいほどの規模の話で男、疾風は最早呆然とするしかない。
「……まあ名前なんて後から付ければいいか。それじゃあどこか適当な村にでも行くか」
「ああ、ついでに俺の服どこかから持ってこないとな」
 名前を忘れた青年は自分の服を一目して呟く。
「貴族から服を盗めば殺してくれるかな?」
「止めとけよ。どうせ死ねないんだろ」
「そうだな」
 疾風の言葉に青年は頷くと、二人は他愛のない話をしつつ歩く。
「あっと、忘れてた」
「どうした?」
「墓を作るの忘れてた」
 疾風はすぐに作業中の穴に戻ると手で掘り始める。青年はそれを見て、作業中の穴の処まで戻り疾風の向かいで座る。
「墓か……」
「お前にはどのくらい無縁のものなんだ?」
「四百年ぐらいかな……」
「そうか」
「……」
 しばらく無言であった青年は、やがて疾風と同じように穴を掘り始める。その墓が作り終えるまで終始二人は無言だった。

 ここに吸血鬼と不死者が出会う。
 そして、それは二人の黒い糸が確実にたぐり寄せられている証拠でもあった。

闇久の糸〜序章「墓」〜終

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