もはや自分の血の通わぬ人工の足は生身の足と変わらぬほどに頼りになる相棒だ。その足を信じるという言葉は語弊だろう。信ずるも何もこの足は彼女の次代の足なのだから。 この足が最後に辿り着くのは栄光や奇跡などではない自分自身の努力の結果がもたらす必然であった。
体中が酸素を欲し肉体が悲鳴を上げる。それを気力で黙らせた後にやってくるのは空気の壁だ。べっとりとまとわりつく見えない壁は確実に彼女の速度を奪っていく。だが、彼女の速度は変わらない。彼女はその境地に至って思い出す。それは自分がまだ義足ではなかった時の話。届かぬと思いそれでも届かなければならないと感じたある友人の思い出だ。
絶対に会おう。
彼女は誓う。ここをゴールしてあの友人に会うのだ。だから無様な姿は見せられない。全力では足りない。気力だけでもまだ足りない。全身全霊、魂さえも振るわせて彼女は腕を振るう。
ゴールまで後、数メートル。彼女はそのゴールに向かい、自身の全てを注ぎ込んだ。
「そこの人」
急に誰かに呼び止められた。ユウジはあたりを見渡して、そしてそこには自分しかいないことに気づく。ボサボサの髪は普段ワックスで固めて立たないようにしているのだが、今日は仕事ではないため、特に気にせず自由自在に立たせ放題だ。顔立ちは悪くはないと思ってはいるがたぶんイケメンなどと言われるほどではない。褐色の肌は生まれつきだった。 そんなユウジが自分を指さすと彼女は頷いた。 「他に誰が居る?」
さも当然のように言う。確かにその通りだろうが、都会のど真ん中で赤の他人を呼び止めるなどなかなかあるような経験ではない
そんなユウジが歩道橋を渡った先で出会ったのが目の前の彼女だった。白いワンピースに身を包み長い黒髪は彼女の背中まで届いている。外見はお嬢様という印象だが、鋭い目つきに人を寄せ付けようとはしない剣呑な雰囲気は正直ユウジの苦手なタイプだ。そしてそんな彼女は今、車いすに乗っている。何かの怪我がそれとも病気か分からぬがワンピースの下にのぞく足がどの程度悪いのかユウジには判断することが出来なかった。
「何でしょうか?」
やむなく彼女の元へと向かい目の前に立つ。彼女は顔を上げてユウジを見つめるがその瞳はどこか挑むような目をしている。
「今日暇か?」
「は」
「だから、今日暇かと聞いている」
「まあ、暇と言えば暇だけど…………」
ユウジの今日の予定はたった一つだけだ。それも時間を選ぶ必要は無いので、その予定を行うまでは時間を持てあましているとも言えるし全く時間がないとも言えた。
「なら私の手伝いをしてくれ」
一方彼女はそれを『暇』だと判断したらしい。
「は?」
「安心しろ。報酬ならちゃんとするぞ。これでも私の家は裕福なほうだからな。満足するだけの金は用意する」
そこのどこか安心する要素なのか。いまいちユウジは判断しかねるが、彼女はどうやら本気らしい。一体何をするのだろうか。普段の彼なら間違いなく断るだろうが、しかし今日の彼は少し違っていた。
「え〜と、何をすればいいのかな?」
頬を掻きながらそう告げる。すると彼女は表情を変えた。何か怪しい者を見るような目つきだ。
「…………本気か?」
「いや、今のが冗談ならそれでいいんだけど」
「……まあいい。どうせ必要なものだしな。本気で手伝ってくれるのか?」
「うん。どうせ今日はやることなんて一つしか無いし」
ユウジは少し嘘をつく。だが少女にはそれで十分だったようで、頷いた。
「なら頼む。あ、言っておくが私を拉致ろうとか考えぬ方がいいぞ。その後間違いなく物理的に抹殺されるからな」
「なるほど、気をつけるよ」
そんな冗談のような始まり方で二人は出会った。
「私の名前はスバルだ」
ユウジに車いすを押されながら彼女はそう言う。歩道橋から駅まで距離にして二百メートルといったところだが、何しろ車いすを押すという行為を初めて行うユウジはおそるおそる歩道を歩く。一方どのような動きでも特に気にしないのか彼女、スバルはそれに意見することはない。
「僕の名前はユウジ」
「ほう、なら星繋がりだな」
「え? どこが?」
スバルは昴ということで、星に繋がりがあるのは何となく分かる。だが、ユウジという名前からは星の繋がりはまったく感じなかった。
「なんだ、百武裕司を知らんのか? 有名なアマチュア天文家だぞ」
「そんな人がいること事態初めて知ったよ」
星に興味のないユウジにとってはむしろ『ひゃくたけ』という名字の方が気になるくらいだ。なんと書くのか想像ができない。
「そうか。そんなところか…………」
スバルは何かを考えるように手をあごに添えた。歩道と車道の段差をゆっくりと超えて左に曲がる。後は駅までまっすぐだ。
「もっと乱暴でもかまわんぞ。こういうのを押すのは初めてなんだろ?」
「まあね。でも悪いでしょ」
ユウジはそう言いながら車いすのグリップを握り直す。
「誘っておいて言うのも何だが、お前は人からお人好しと言われるだろ」
「じゃあその言葉をそのまま返すと、君はよくわがままと言われない」
「……前言撤回しよう。口が悪いの間違いだ」
「そんなこと言われたの初めてだなぁ」
ユウジは笑う。その笑いが気に入らないのか、スバルはふてくされたような表情を浮かべた。
駅に辿り着き、早速切符売り場へと車いすを進めた。
「ここから大宮までいくらくらいだ?」
「目的地は大宮?」
「ああ」
スバルに言われ、ユウジは運賃を確認するがここはJR線ではないので記載がない。
「とりあえず乗り換え分だけ買ってJR線まで辿り着いてからまた買おう。ここじゃ分からないし」
「面倒だな。というより私のような人間は何から何まで面倒だが」
スバルはそう言って自分の膝に手を当てる。
「やっぱり…………」
それ以上言おうとしたユウジにスバルは手で制した。
「それ以上は言うな。つまらん台詞は聞きたくない」
少し怒気のこもった声。スバルに出会ってものの十分だが、彼女の気の強さは十分理解できた。
「まあ、私も言い方が悪かったな。一応雇用主として言っておくが私に変な遠慮は無用だ。むしろそういうのは煩わしい」
そう言ってスバルは財布を取り出した。
「了解。でも無理なことは手伝うんだよね?」
「そうだな。まあやって欲しいことは伝えるつもりだ。これで切符を買ってくれ」
そう言って渡されたのは諭吉が描かれた紙幣だ。
「もう少し細かいのないの?」
「生憎持ち合わせはそれだけだ。ついでにお前の分も含まれてるからな」
「え、いや僕は…………」
「雇用主に恥をかかせる気か?」
彼女の視線に鋭さが増す。どうやら拒否することは許されないようだ。
「分かりました。分かりましたよ社長。僕の分も買えばいいんですね」
あきらめたように肩をすくめて彼女から紙幣を受け取った。
エレベーターでホームに立って事前に駅員に聞いていた車いす専用の車両に乗る。ここでは本来座席のある場所に何もない。つまり車いすをその場にすれば他の人間に迷惑をかけることはないというわけだ。数人その場所にたむろって板がスバルの姿と鋭い視線にたじろいて蜘蛛の子を散らすように消えていった。
「ここからどのくらいでつけるか分かるか?」
車にストッパーをかけて電車の進行方向とは逆に向いているスバルはその前に立っているユウジを見上げた。
「うまく乗り換えできれば30分くらいでいけると思うけど」
「そうか。そんなものか」
自分で思っている以上に短い時間だったのか、どこか落胆したような口ぶりだ。そんな彼女を見下ろし、そして、ふと携帯を取り出すと電池が残り一本になっていることに気付いた。ユウジは電源を切ってポケットにしまう。もう二度と電源をつけることがあるかは分からないのだが。
「ところで君はどうして大宮なんかに?」
「その前にまずは私の名前を覚えることから始めるべきだな」
「じゃあ、スバル様」
「…………呼び捨てでいい。馬鹿にされているようだから」
仏頂面でそう言うスバル。ユウジは笑みを浮かべた。
「なら僕も呼び捨てでかまわないから」
「…………食えない奴だな」
「それで、スバル。さっきの質問だけど。どうして大宮なんかに?」
「あそこに大きな神社があったろ?」
「あるの?」
「ユウジ。お前はもう少し知識を持つべきだと思うが」
「努力するよ。大宮に神社なんかあったんだ」
「ある。氷川神社という神社だ。同名神社の本社。社格は官幣大社。 そこにお参りに行きたいんだ」
「お参り?」
「ああ。私の手術が成功するようにな」
「なるほど」
つまり彼女は今歩けぬ足を治るように祈願するためにその神社に行こうとしているわけだ。
「ユウジ。私がこれから受ける手術は、たぶんお前が思っている手術とは別の手術だ」
「別の手術? 足の手術なんでしょ?」
「ああ。ただしこの足を切り落とす手術だがな…………」
「…………は?」
ユウジは言葉を失う。本来であればより遠回しの発言をするべきであろうその事実を彼女は真正面から伝えたのだ。
「そういう手術だ。この足は動かない。例え私の親が世界的にも有名な財閥の娘であってもな。だから使えぬ足は捨てて新しい足を手に入れる。これから私が受ける手術はそういう手術だ」
「………………」
なんと言えばいいのかユウジには分からなかった。ユウジは幸いなことに体に不自由したことはないので、今の彼女も分からない。そしてこれからの彼女の心境も彼の数十年間の記憶の中に同様の経験は存在しなかった。
「はぁ。どうしてそんな顔をする。手術を受けるのは私だぞ」
一方のスバルは涼しい顔つきのままだ。
「いや、何というか…………」
言葉が作れない。慰めも同情も彼女にはいらぬ世話だ。それはこのほんの十分ほどの行動で一目瞭然だ。ならば励ましか羨望か。いや、きっとそれも違うだろう。しかも沈黙すらも答えではないのだ。だから。
「僕はなんて言ったらいいのかな?」
彼女に問うた。すると彼女は複雑な表情を浮かべる。しかめっ面のようではあるが、それよりも疑問の表情が強く感じられつつ、その二種類の表情を合わせてまるで赤と緑を混ぜて全く違う色の黄色ができるようなそんなどんな意味合いを持った表情か分からない表情を作った。
「それを私に尋ねるのか?」
「いや、正直何を言って良いか分からなくて」
「…………お前は馬鹿なのか?」
「まあ、よく言われるかな」
ある友人の顔を思い出す。確かに自分は馬鹿なのだろう。全て彼女の言うとおりになったし、そして今この行動からこれからする事に対しても彼女は馬鹿だと言うだろうし。
「それに真面目だな。まあ、そんな相手がいたことを幸いと思うべきか」
スバルは笑う。何に対しての笑みだろうかとユウジは思うが、その笑みが嘲笑のような悪い笑みではないことは分かった。
「どうやらもうすぐ着くようだな」
「え?」
スバルの言葉にはっとしユウジが外を見ると確かにもうすぐ駅にたどり着く。これから彼女とともに階段使わなければならないのだ。面倒ではあるが、仕事であるのだからやらなければならない。
「さっさと準備しろ」
スバルはまるで従者に命令する主人のようにそう言った。
車いすというのを操作するのはこれほど難しいものだとユウジは改めて理解した。階段に関しては今はエレベーターが標準的に存在するためにそれほど苦にすることはなかったが、それでも一般の人が通れる場所を通ることが難しいし、何より怖いのは人の波だ。人にぶつかりそうなことも何度かあったし、逆にぶつかってきそうな人を避けるために神経を尖らせなければならないので肉体以上に精神的に疲れるのだ。
「疲れた…………」
大宮までに一直線の電車に乗り、彼は肉体以上に酷使した精神をどっぷりと電車内の背に乗せた。
「ずいぶんと軟弱だな。ちゃんと体は鍛えているのか?」
一方のスバルは涼しい顔つきだ。まあ、彼女はただユウジや駅員に命令するだけで体を動かすことはしていないので当然と言えば当然だ。
「どうしてスバルはそんなに偉そうなんだい?」
大きなため息をついた後にユウジはそう質問する。
「偉そうも何も私は偉いからな。それにこれは特権だ」
「特権?」
「ああ。私は足が動かせない。だからその足の替わりを他の誰かがしてくれる。そういう星の下で生まれたのだからこれは特権だろ?」
そう言ってスバルは意地の悪い笑みを浮かべる。だが、その裏にどういう想いがあるのか何となくユウジには分かった。
「だけどその特権が気に入らないんだ」
そう言うと彼女は一瞬だけ表情を失い、しかし直ぐに何かを恥じてそっぽを向いた。
「……まあな。人に指図して足の替わりにするのは飽きた。私は私の行きたい場所に誰にも知らずに行ってみたい」
それが、彼女の願いなのだろう。そう感じ、そしてそれはとても勇気がいることだということはユウジにも分かった。今まで人の庇護の中で生きていた彼女はそれをよしとせず、自ら突き進もうとしているのだ。
「そういえば……さっきから私ばかり質問に答えているな」
気を取り直してスバルはユウジにむき直す。
「そう?」
首をかしげるユウジに対して、スバルはじっとユウジを見つめる。
「これからは私に質問に答えてもらう」
「それは命令? それともお願いかな?」
「両方違う。これは義務だ」
「なるほど」
ユウジは苦笑する。
「年齢は?」
「えっと今年で28かな」
「ほぉ、もっと若いかと思った」
「よく言われるよ。あんまり意識してないんだけどね」
「家族は?」
「いないよ。両親は事故で。親戚もいないから」
天涯孤独ということだが、もはや慣れてしまったことだ。
「そうか。家事は全部一人でこなすのだな」
「あ、うん…………」
何かもっと家族について突っ込んでくるのかと思ったが、全くないので拍子抜けしてしまった。だが、それは彼女なりの気遣いなのだろうと直ぐに気づく。彼女自身色々と言われ続けているのだからそれを相手にも強要することは彼女のプライドが許さないのだろう。だからそれをただの事実として同情は抱かない。彼女の潔さが伺えた。
「普段は何を?」
「今の時間だったら仕事かな。今日は有給を取ったんだけど」
「なら何か用事があったのか?」
「いや、その用事はいつでも出来るから。それにそれまで暇だったのは事実だしね」
あまりこれ以上突っ込まれたくないのだが、ユウジは出来る限りそれを露骨に表現しないように気をつける。
「ふむ。ならばいいが。彼女の一人もいないのか?」
「…………いや、最近別れちゃって」
一番触れて欲しくない部分を言われて体が硬直する。
「なら、私が付き合ってやろうか?」
そんな言葉をまた意地悪い笑みで告げた。
「は?」
「冗談だ。それに私には別の相手がいるしな」
「別の相手…………許嫁みたいな?」
頷くと手を挙げてやれやれと首を振る。
「まあ、そんなところだ。駄目な男だが一途な部分は気に入ってる。それに私を対等な人間として見てくれるのも高評価だな」
「スバルがそれだけ褒めるんだから良い人なんだろうね」
そう言うととたんにスバルの顔が赤くなる。
「な……ば……馬鹿か! そんなことあるか! あんな奴刺身のつまにもならん!」
動揺しているということは肯定していると同じことなのだが、スバル自身が気づいていないのだからそれを伝えることは無粋だろう。
「……まったく。…………いや、そうか。そういうことか」
興奮して息づかいの荒かったスバルは冷静さを取り戻すと共に何かに得心したようだった。
「何?」
「ユウジ。お前はどことなくキイチに似てるんだ。だからだな。私がすんなりお前を受け入れられたのは」
『キイチ』とはたぶん先ほどから話題にしている彼のことなのだろう。
「つまりその人は馬鹿でお人好しというわけだよね。スバルからすれば」
スバルがそう言ったのだからそうなのだろうが。
「本当に口が悪いな、お前は。まあ、確かにその通りだな。あいつは馬鹿だしお人好しだ。ただ違うところがあるとすれば…………」
じっとユウジを見つめるスバル。ユウジはそれに対して首をかしげて応戦した。
「何でしょう?」
「いや、何でもない。私の取り越し苦労だろうし。それよりいつの間にかやはり私の質問になっている気がする」
「そう? というより僕が語る話なんて平凡なものだけどね」
ユウジは苦笑する。本当に自分が語る事ができるのはわずかなことだけだ。平凡に生きて平凡に暮らしていた。多くは望まなかったし、大きな夢もなかった。
「そんなことはユウジが決めることではない。私が決めることだ」
一方のスバルはそう言ってやはり笑う。ユウジはその笑みに対してため息をついた。
「スバル。思うんだけど、世界は君中心で回ってるのかな?」
「何を当然のことを言っている?」
さも当たり前だとスバルは断言した。
大宮を降りてスバルの言葉通りに足を進めるユウジ。駅の中と違い、歩道はそれでも歩きやすい。
「なあ、ユウジ」
スバルは先を見ながら口を開いた。
「何でしょうか? 姫」
「…………絶対に馬鹿にしてるだろ?」
「いやいや。で、何かな?」
「さっき、電車に乗っているときに言いかけたんだが、お前がキイチに似てると言っただろう?」
「そう言えばそんなことを言ってたかな」
「ああ。それなんだが、何か追い詰められたりしてるんじゃないか?」
「………………」
ふっと、ユウジは立ち止まる。表情が見えないことをこれほど幸いだとは思わなかった。
「お前とキイチの違い。ユウジ今のお前はなんだか無理をしているように見える。本来笑うべきではない場所で無理に笑っているような…………」
「……なるほど」
そんなことまで分かってしまうのかとユウジはスバルの洞察に舌を巻く。確かに今の自分に笑顔は似合わないだろう。友人から言われる『嘘の笑顔』という奴を顔面にべったりと貼って何とか体裁を保っているのが今の彼だ。
「何があった? ここまで辿り着いた礼に私で解決することができるなら…………」
「無理だよ…………」
静かに、たぶん静かにそう言えたとユウジは思う。彼女は何も分かっていないのだから、彼女に対してこの仮面の下のどす黒い感情を見せるわけにはいかなかった。
せっかく、このまま終われそうだったのにとユウジは思う。このくすぶった感情をどうにかスバルの前で見せずに終われると思ったのに。
「無理なんだ」
そうもう一度スバルに伝える。後頭部しか見えぬスバルは一体どのような表情を浮かべているのか。そんなことを考えていると車いすが勝手に動く。いや、スバルが手を使ってユウジの力を使わずに動かしているのだ。そしてゆっくりこちらに顔を向ける。その表情は何故か少し怒っていた。
「酷い痛みだな」
「何が?」
「お前の顔を見れば分かる。まるで心臓を貫かれたような痛みを背負ってる。そんな顔だ」
それは一体どんな表情なんだろう。ユウジには検討もつかなかった。
「お前は馬鹿だ。何故こんな小娘の世話をしてる? 今のお前は重傷人だろ。何故家で眠っていない。何故誰かに相談しない。何故、笑っている。仕事の有給という話は嘘だろ?」
「…………うん。仕事はさぼってた」
ユウジは頷いた。あまりにも色々とありすぎてたぶんスバルに誘われていなかったらぶらぶらと街をさまよっていたことだろう。それほどまでに思考が停止していたのだが、スバルと出会ったことで何とか人としての思考を取り戻すことが出来たのだ。
「馬鹿。さっさと電話を入れろ。今からでも間に合うだろ」
「いや、いいよ。どうせこれから仕事に行こうなんて思わないし」
「生活の基盤を捨ててどうする」
なんだかずいぶんとしっかりとしたことを言われている。ただ、ユウジにとってはそんなことどうでも良かった。
「いいよ。生活なんて。どうせ今日自殺する予定だったし」
「…………な!」
スバルの表情が一変する。
そう、ユウジは今日自殺する予定だった。別にそれが今であろうと彼女の手伝いをした後でも変わりはしない。だからユウジはこの戯れに付き合ったのだ。どうせ死人である自分のちょっとした遊びのような感覚で。
「まあ、死ぬ前に人助けくらいしようかなって」
「ふざけるな! 自殺だと? 一体どうして!」
「そうだなぁ…………」
ユウジはゆっくりとスバルのところまで歩き、彼女の後ろについた。スバルは直ぐに振り返ろうとしたが、それよりも早くユウジはスバルの車いすの取っ手を掴み進行方向を無理矢理元に戻す。
「くっ!」
腕に力を込めてその動きを阻害しようとするが、ユウジの方が力は強く、前に進んでいってしまう。目標の神社はもう目印でどの方向にあるか分かる。
「例えば、婚約してた女性が突然逃げ出して、挙げ句の果てに結婚資金やらなにやら全部取られたとか。そんなことされると自殺したくならない?」
「ユウジ…………」
「止めなよスバル。君に同情や哀れみは似合わない。自分が言ったことだろ。だからそれを相手に強要するのも駄目だ」
何しろだからこの事を言えるのだ。
彼女は同情もしない。哀れみもしない。対等であることを常とする。ならばユウジの全てを肯定しなければならない。
「スバル。確かに君の言うとおりだ。僕は馬鹿だよ。彼女に裏切られたから。それでもっと困ったことにそのことを分かった上でも僕は彼女が好きなんだ。きっと笑われるね。馬鹿だって。僕は本当に彼女が好きだったけど、彼女にとっては僕は単なるカモでしかなかったんだし」
「止めろユウジ!」
分かる。ユウジは今自分の傷を抉っている。そしてその痛みはスバルでも想像は出来るし、そしてたぶんその想像以上にユウジは傷ついているのだ。
「止めろ……命令だ…………」
そう言うと、ユウジは立ち止まった。車いすの取っ手を強く掴んでいることをスバルは感じる。
「ごめん」
ユウジは一言そう言った。その言葉はどこまでも痛々しい。
「こんな話するつもりじゃなかったのに。君とはこのまま別れたかったんだけど…………」
そしてそのまま別れて自殺するつもりだった。たぶんユウジはその言葉を飲み込んでしまった。
「さあ行こうスバル。もうすぐだから」
そう言って車いすを押すユウジ。神社までは後1キロにも満たない距離だった。
「ここが…………」
ユウジは鳥居を見上げる。
「そうだ。ここが氷上神社だ」
白い石段が道となり、その奥に鳥居が見て取れる。そして鳥居の奥には本殿がみることが出来た。
「こんな場所があるんだ。全然知らなかったよ」
「何度も言うが日本人ならせめて官幣大社くらい把握しておくべきだ」
「そうだね…………」
ただそれ以上は続かない。そして続かない理由はスバルは理解している。ユウジには『この先』がないのだ。
「それじゃあ、僕の仕事はこれで終わりかな?」
スバルの隣に立って彼女を見る。
「ああ…………」
沈みがちなスバルにユウジは申し訳なく思う。あのような会話をしなければ彼女にこのような重荷を背負わせることは無かったのに。ただ自分が自殺するということは決定事項であり、仕方のないことなのだ。
「じゃあ、スバル。手術の成功を祈ってるよ」
「…………」
スバルは何も言わない。けれどこれ以上自分が留まる理由も存在しない。ユウジはその顔を見て、そして本殿とは反対の方向へと歩き出す。後は人目も着かない場所に行くだけだ。場所は考えていないがどこでもいい。どうせ死ね事に変わりは無いのだから。ただ人に迷惑のかかる死に方は極力避けたかった。
「電車にひかれては駄目か。じゃあやっぱり投身自殺かなぁ」
そんな独り言を呟きながら歩き続ける。振り返らずに。たぶん振り返ると決心が鈍りそうな気がしたから。しかし。
「ユウジぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
突然の叫び声に思わずユウジは振り返る。そこには全力疾走でこちらに向かってくるスバルの姿があった。
「!?」
スバルはそのまま手に力を込めて車いすを飛び出す。空中を飛ぶスバルはスローモーションのようにこちらに近づいてくる。ユウジはそのままやってくる彼女を抱きしめるが、反動に負けてそのまま倒れ込む。
「いっ痛。何を…………」
そう言いかけて、胸の中にいたスバルが起き上がり、馬乗りの状態になった。
「巫山戯るな! 死ぬなんて許さないからな!」
「いや、許さないとか…………」
「うるさい! うるさい!」
ユウジの胸倉をつかみ、たぐり寄せスバルの顔とくっつくほどに接近する。
「私に関わった奴が私の許可無く勝手に死ぬな!」
「…………」
「もし死んだらお前の葬式を国賓並に豪華にやってその前で『馬鹿め』と叫んでやる! だから勝手に死ぬな!」
「どうして…………」
本当に不思議に思い、ユウジは呟く。
「何故……泣いてるの?」
そう言うとスバルは手を離す。ゆっくりと地面に後頭部がぶつかり、スバルは涙をぬぐう。
「私は……私の車いすを押してくれた人を決して忘れない。そしてその人物はかけがえのないものだと知っているから。だから…………」
「………………」
「だから死ぬなんて言うな…………」
最後はか細くほとんど聞こえない声。だがその声は心に穴が空いたユウジに響いた。
ユウジは空を見上げる。なんだか全てが馬鹿馬鹿しくなってユウジは頬をゆるめる。
「何を笑ってる?」
怖い顔をするスバルをちらりと見つめ、そして自分が久しぶりに心の底から笑っていることに気付いた。
スバルはその後、絶対に死ぬなと念を押して、迎えに来た黒いリムジンに乗っていった。どうやら彼女がどこかのお嬢様であるということは本当らしい。
スバルがいなくなるとまるで彼女という存在が夢のように思えてくる。自殺を止める白昼夢かと考え、彼は歩き出す。何しろほとんど無一文の状態だ。仕事はどうにかなるかもしれないが、このままだと一ヶ月生きることも難しい。
「さて…………どうしようかな……」
携帯を取り出し、電源を入れてみる。すると着信音が鳴った。液晶を確認すると友人から数十件のメールが届いている。ユウジはその友人に電話をかけてみる。コールは数回で繋がった。
『馬鹿野郎!!!!』
いきなりの大声に思わず携帯から耳を遠ざける。しばらく罵声を遠くから聞いた後、相手も落ち着いたのか携帯を再び耳元に戻す。
「もしもし」
すると今度は泣き声が聞こえてきた。
『馬鹿…………ホントに心配したんだから……仕事場にも電話して…………全然連絡つかなくて。警察にも相談しようと思ってたんだから…………』
後はもう何を言っているのか判別することはできない。ただ、心底彼女は自分を心配してくれていることだけはそれで十分理解できた。
「ごめん…………心配させて…………」
死ねない理由はこんなに近くにあったのだ………………
数年後…………
「ねえ、ユウジ。私ちょっと買い物に行ってくるからスバルの事見ててね」
そう言って出て行く女性に手を振ってユウジは答える。ユウジは居間に置いてあるベットの中にいる赤ん坊を覗いてみる。親指をしゃぶりながら寝ている我が子を安心して見つめた後、つけっぱなしのテレビを見る。
『優勝おめでとうございます』
『ありがとうございます』
それは陸上競技のインタビューのようだった。
『パラリンピック出場枠のタイムを2秒以上も縮めての一位ですが、 やはり目指すはパラリンピック出場。そして金メダルですか?』
『そうですね。やるからには上を目指したいです』
『今、この気持ちをどなたに伝えたいですか』
『もちろん私を支えてくれる仲間や先生ですが、走っている途中である友人のことを思い出したので、その人に優勝したことを伝えたいです』
『なるほど。ではその人に向けてどうぞ』
『ユウジ。私はここまで来れたぞ。必ず会いに行くらな』
その映像を見て、ユウジは驚くとともに笑みを浮かべる。こちらも会いたかったのだ。そして自慢することは多くある。
きっと彼女がそう言ったのだからその日は近いのだろう。
ユウジはその日を思い、彼女の名前をもらった娘を見てどう思うだろうなと内心考えて苦笑した。