聖歴一六五四年、トランクイロ大陸。「豊穣の国」ユニア。
気持ちの良い天気がしばらく続いている。空には青い空と切れ切れの雲が見え、空気は実に澄んでいる。最近都会では蒸気自動車でくすんだ空気ばかりだが、それでも高級品であるあの手の乗り物は街道の中腹には存在しない。現在でも流通の約七割は馬か蒸気機関車だし、蒸気自動車やましてや臭油自動車がこんな街道に氾濫するのは後十年は必要だろう。
男は現在の移動手段に関する知識を大まかに引き出しつつ、懐から煙草道具一式を取り出す。青年と初老の中間点、言ってみれば中年と言って差し支えのない年齢の男だ。黒いコートと黒いブーツに黒いハット。その出で立ちのほとんどが黒で統一されており、趣味なのかそれが男の宗教なのかは分からない。
「カガチ。私のいる前で煙草は吸わないでよ」
隣の少女が鬱陶しそうに口を開いた。暗に何度言えば分かるのかと言いたげだったが、男はその裏にある思いを読み取れなかったことにする。
「煙草は健康に良いんだ。一日三本吸うと心穏やかになる」
少女の言葉を無視して男、カガチと呼ばれた男は煙草を一本取り出して口に加えた。
「カガチは一日一箱吸うじゃない。それに煙草は健康に悪いのよ。知ってる? 煙草を吸っている人は吸っていない人と比べて病気になる確率が三倍なんだって」
邪険な眼をした少女を皮肉たっぷりの眼で見つめ返しながら、カガチは煙草に火を付ける。
「自慢じゃないが、俺は生まれてこの方、風邪をひいたことがない」
煙を少女に向かって吐き出した。
「ふわっ!」
慌てて少女は紫煙を両手で仰いで散らす。
「もう! 最低なんだから!」
突然のことに、少女は怒り、カガチを置いて歩き出す。カガチは煙草を吸いながら少女の怒りすらも面白がって笑っていた。
「自覚してるよ」
「さらに悪い!」
少女は叫んで今度こそカガチを放って歩き出してしまう。
「やれやれ」
男は溜息をつきつつも煙草を吸う。そして、何とも年寄り臭い溜息をつくようになったと苦笑してしまう。だが、それもやむを得ないことだろう。隣にいた少女があれだけ成長したのだから、その分自分が年を取るのは当然なことだ。
金髪碧眼の少女。名前はユニ。名付け親は自分だ。さんざん悩んで傭兵時代の仲間の名前を付けたのだから自分のボキャブラリーの無さに呆れ返る。そんなわけでユニ自身には昔惚れていた相手の名前と言ってはいた。
「置いてっちゃうからね〜!」
ずいぶんと遠くまで先行していたユニは振り返ってそう叫ぶ。カガチは焦ることもなく手を振る。それが気にくわなかったのか、ユニは地団駄を踏んで、また歩き出してしまった。
「やれやれ」
もう一度そう言うと、自分が持った荷物を背負い直し、彼女に追いつくためにカガチは歩き出した。二人はこんな他愛もない喧嘩をしながら旅を続けていた。
豊穣の国、ユニア。この国はそう言われている。大陸の中で最も農業に適した土地が多くあることが、この名の由来である。しかし、十年前の大戦ではこの国が最も大きな戦場となった。そのため戦場の疵痕が最も残る国でもある。生者が存在できない死の大地「廃棄区域」。「爆弾」が初めて投下され、巨大なクレーターを残した「グランド・ゼロ」など。その疵痕は少ないながらもまだまだ多くある。しかし、十年の歳月はその悲惨な疵痕を観光地にしてしまうほど人を逞しくしてくれた。今やユニアの戦争の疵痕は観光名所の一つとしてそこにある程度だ。
「で、なんでまた今度の目的地はドニスなわけ?」
観光マップを見ながらユニは隣のカガチを見る。カガチは本日三本目の煙草を口に加えていたが、それを即座に奪い取ってしまう。
「おい」
抗議するものの、ユニの眼が今にも刃物を持っていれば刺しかねないほど剣呑だったので、カガチは煙草の替わりに言葉を吸い込むことにした。
「今まで戦争の跡地ばかりだったから、今度は逆に戦争復興の基点になった場所でも見に行こうと思ってな」
それを聞いたユニは煙草を自分のゴミ捨て袋に入れながら、いかにも胡散臭げな目でカガチを見ている。
「ふ〜ん。で、本音は?」
「そろそろ煙草が切れそうだから調達に」
「どーせ、そんなことだろうと思いました」
溜息をついて、ついでに肩を落とす。一方のカガチは心外だと抗議する。
「煙草だけじゃないぞ。もちろん理由の大方はそうだが、他にも調達するものはたくさんある。あの街はレッツァと首都を結ぶ陸路に沿った街だから色々なものがあの街を通るんだ。それにそんな街だから宿泊施設も充実している。一泊するには最高の街だぞ」
「とか何とか言っちゃって。どーせ私を置いて歓楽街にでも行こうと思ってるんでしょ?」
「まさか。俺は純情な男だ。行きずりの一夜なんてことはしないさ」
「一週間前、酒場で赤髪の女の人を口説いていた人が言う言葉じゃないわよ」
「あれは、彼女こそが運命の人だからと思ったからさ」
「お手軽な運命の人ね。その運命の人は今月で何人目?」
「きっと俺の前世は王族だったんだろ。だから嫁は何人もいたんだ」
「本当に、最低なんだから、カガチは」
そう言って観光マップを胸ポケットにしまい込んだ。ユニは容姿こそ一級品ではあるが、その服装に至っては実用一点張りのレンジャー仕様の重厚な出で立ちだ。そのミスマッチ感が彼女の容姿を台無しにしている。一方でカガチはその黒い服装が異様に似合う。ちょっとしたテクニックがあれば、女性を連れて夕食など簡単に出来るだろう。もちろんそういったテクニックをカガチは会得しているので、ユニには余計に腹立たしいことではあった。
「そんな最低の奴にも関わらず、お前をうまく育ててる。意外に子育てが得意だと自慢してるんだぞ。俺」
「それはありません。私を育ててくれたのはカガチじゃなくて周りの環境。そして私の努力です」
ぶつくさ言い続けるユニを苦笑してカガチは前を向く。ドニスの街はすぐそこまで見えていた。
ドニス。大戦終結後、ユニアで最も早く復興を果たした街だ。
もちろんそれには理由がある。大戦終結後、ユニアが最も危惧したことは物資の調達だ。衣食住には、それぞれにあった物資が必要になる。しかし、ユニアは大戦のためにその物資の供給が完全にカットされていた。芳醇な土地があるからと言っても、そこから農作物を作り出すには時間がかかるし、まず作るために必要なものまでも不足していたのだ。そのため他国からの援助がユニアの生命線となった。ドニスは西の国レッツァとユニアの首都を結ぶ最も大きな街道の中間点に存在する都市だ。ユニアはこの都市を基点にレッツァの物資をそれぞれに配給するシステムを作り出した。そのためにはまずこのドニスの体勢を立て直さなければならない。そのため戦争終結後、たったの半年でドニスはその機能のほとんどを回復させてしまった。
当時を振り返り、各国の人々はこのドニスの復興を奇跡だと絶賛した。ただ奇跡は人が起こすものだ。誰もが復興を望んだ時、そのために人が動き、それだけを願って努力を積み重ねた。それが結果として出たに過ぎないとドニスの人々は言っている。
街の入り口にある検問所で、入街の許可を得ると二人は他の馬車や馬に乗った人々と共に街へ入っていった。
「うわ〜」
ユニは人の多さに思わず感嘆を漏らす。
ドニスの街は活気に満ちあふれていた。首都とレッツァの国からやってくる物資。そしてそれを運ぶ人で常に人の数が変動しているからだ。それにそのような人々にあやかろうとする出店の数。それを扱う人々も合わさり、ドニスの街は入り口でありながらすでに混沌としていた。これほど人が溢れる街はそうそうないのだから、ユニが思わず圧倒されてしまうのは当然と言えば当然かも知れない。一方のカガチはユニが見とれているのをいいことに、ここぞとばかりに煙草を吸っていた。
「凄い人だね。カガチ……ってまた煙草吸ってるし!」
ようやくカガチが煙草を吸っていることに気づき、奪い取ろうとするが、今度はカガチが上手でユニの攻撃範囲からすっと逃れた。
「騒がしい奴だな。それよりも宿探しだ。ここにはしばらくいるつもりだから観光は後でいくらでもできるぞ」
「分かってるわよ。全く……本当にカガチは情緒とか機微とかが分からないんだから」
ふくれっ面でユニは歩き出す。
「そんなことはないぞ。情緒と機微を知らなきゃ女は落とせないからな」
カガチもユニの後に付いていく。ユニはカガチの言葉は無視して再び辺りを見渡してみた。
物資のリストを見る人やら馬車から荷物を運び出している人。出店の店先で声を張り上げている人もいれば、器が小さいと文句を言っている人など。年齢、性別、服装、人種。それら特定のキーワードが人によって変わってきて、同じ人が全くいない。もちろん「同じ人」というものは存在しないが、一つの街においてキーワードが重なる人は多い。しかし、そのことがこの街には全く当てはまらない。注意深く見てみれば小さなグループはあるのだが、それは町全体を覆うほどのグループではないのだ。
者や物の出入りが多い街ならではということだろう。
ユニは辺りを見渡しながら隣のカガチに話しかける。
「カガチはこの街に来たことあるの?」
「いや、話しには聞いていたが、来るのは初めてだ」
「そうなんだ。カガチって案外普通の場所には来たことがないよね。大戦の跡地ならほとんど行ってるみたいだけど」
「そうだな。まあ、国中を巡り回ってたのは大戦中だったからな。こういう街には用事がなかった」
「ふ〜ん」
興味が無さそうにそう言うとユニは周りを見渡しながら先へと進んでいく。カガチは煙草を捨て、後を追いかける。
「あの…………」
「ん?」
誰かに呼ばれたと思い、カガチは後ろを振り返った。
「ほお…………」
そこにいたのは一人のシスターだった。ゆったりとした修道服に身を包みヴェールをかぶっているので髪は見えないが、透き通るように白い肌に青い瞳。その容姿はまるで人形のようだった。
「お嬢さん。今宵、私の懺悔を聞いてくれませんか?」
「何してるのよ、そこ」
舞い戻ってきたユニはカガチの腰を軽く押す。
「ったく、言ってるそばからナンパしない。いい年してみっともない」
「いや、話しかけてきたのは俺からじゃないから。な?」
シスターを見ると彼女はおどおどしながら、首を縦に振った。
「ほら。だからついでにシスターと懺悔室に行こうと思ったんだよ」
そう言いながらシスターの手を握るカガチ。もちろんそれをすぐさまユニは払い落とす。
「カガチの罪状を全部述べてたら一晩でも足りないわよ」
「それもそうだな。まあ喜ぶことかもしれないが」
「まったく喜ぶところじゃない」
「あの…………」
わめく二人に、遠慮しながらもシスターはもう一度声を出した。その必死さに二人の言葉が止まる。
「タバコ…………」
「へ?」
「捨てちゃ駄目です」
シスターがそう言って手を出す。そこには先ほどカガチが捨てた煙草の吸殻がある。
「こりゃどうも」
カガチはそれを受け取った。
「何やってるのよカガチ。駄目人間の代表なんだからせめて人様に迷惑をかけないようにしなきゃいけないのにシスターさんに迷惑かけて」
「待てよ、ユニ。俺のどこが駄目人間なんだ?」
「存在そのものよ」
「完全否定。ここまで育ててやった恩人に対しての言葉じゃないな」
「カガチ。私が死にそうになったり、ひもじくなったり、胸が無かったりするのは全部カガチのせいだと思うんだけど」
「まあ、とにかく悪かったな。尼さん。ところで今夜どう?」
「無視するな! それにシスターを口説かない!」
ユニはカガチの手を掴むと歩き始まる。
「あ…………」
いまいち状況の掴めないシスターに手を振りながら引っ張られるカガチの姿は実に滑稽だった。
「シスター。またご縁があれば」
「あ…………はい…………」
しばらく見送り、シスターは人ごみの中に消えていった。その後姿をカガチは見つめる。
「…………」
「いい加減、自分で歩いてよ」
「ん、ああ悪い。シスターの臀部に見とれていた」
「臀部って?」
「尻のことだな」
「死ね」
次の瞬間、ユニの背負い投げが見事に決まった。
ドニスの街を間単に表現すると円で表すことが出来る。
円は城壁であり、その中に街があるというわけだ。そして東から西に大きな一本の線が入る。これがレッツァと首都を結ぶ途切れぬことの無い街道。この線を東に歩めばユニアの首都に。西に進めばレッツァに行くことが出来る。そしてもう一つこの東西の線を分かつ線が中央にある。それが巨大な門だ。この二つの巨大な線があるためドニスは基本的に四つのブロックに分かれていることになる。道と門での境目というわけだ。四つのブロックはそれぞれ方角で表され、「東北ブロック」「西北ブロック」「東南ブロック」「西南ブロック」に分けられている。
今、カガチたちがいるのは西北ブロックの中央付近だ。西北ブロックと西南ブロックは街道に沿っては見境が無いが、奥に入っていくとそれぞれの用途にあった区分けがされている。つまり宿なら宿で固まって存在しているというわけだ。
「さてと、どこに泊まろうか? カガチ」
ユニがカガチを見ると彼は首を押さえながらしかめっ面だ。先ほどの背負い投げがまだ効いているのだろう。ただ、荷物を背負っていたので、見た目よりはダメージはなかったのだが。
「別にどこでも。女将さんが美人ならどうでもいいさ」
「OK。そういうところは絶対に選ばないから」
そう答えてユニは改めてドニスの観光マップを開く。前まで読んでいたのは違う街の旅行店からもらったものだが、今開いているマップはこの街の観光協会からもらったものだ。
「ん〜、なんで美人女将の店って紹介ばっかりかなぁ。美男支配人の店とかないのかな」
「そんな店つまらん」
言いながら、煙草を加える。
「私の前では煙草を吸わない。やっぱりこんなの見ても分からないなぁ。実地調査しかないか」
「わかってきたなユニ。というわけで美人女将がいるところを頼む」
「絶対却下。カガチが煙草を止めるなら考えてあげるわよ」
「それは死ねと言っているのと同義語だ」
火打石と臭油を利用したライターと呼ばれる火付けの道具を使い、カガチは煙草に火を灯す。ライターはマッチと比べて高価だが、便利な品物で、最近国中に広がっている。結果、喫煙者も多く作り出していると言われていた。
「また吸う! 全く煙草のどこが良いんだか」
「全くだ。俺もそう思う」
「じゃあ、何で吸うのよ?」
「聞くなよ。理由なんて俺にも分からない」
煙が上へとのぼっていく。
「何の哲学よ?」
「男の美学だな。それより、あれ。何だと思う?」
「え?」
はさんだ煙草を矢印にユニはそちらに視線を向けた。見るとそこには人だかりがあり、しかしやけに静かだった。
人が集まるのは面白いことが起こっているか、またその逆が起こっているかの二種類だ。ユニは嫌な気がして、そちらに向かって走り出す。
「おい、ユニ!」
突然走り出したために彼女を捕まえることが出来ず、カガチは叫ぶ。しかし、当然ユニは呼び声に答えず人の集まりに向かっていく。
「困ったじゃじゃ馬だな」
煙草を路上に捨てて踏み潰すとそれを再び掴み、先ほど吸った煙草と同じように皮の袋に詰め込む。
「面倒にならなければいいんだがな」
何故か笑ってカガチはユニを追いかけるように群衆に向かって歩き出した。
っ!
男は殴り飛ばされ、地面に転がる。群衆の中に小さな悲鳴と何を言っているのか分からないざわめきが巡る。
「お父さん!」
倒れた先に少女が向かう。男は殴られた頬をさすりながら、腰を上げた。その肩に少女の手が添えられた。
「…………」
男が見る先には三人の男がいた。明らかにチンピラと分かる出で立ちに、明らかに不良と分かる顔立ち。ここまで徹底されていると落ち着いてみれば逆に滑稽に見えてしまうかもしれない。しかし、暴力を当然のように使用してくる者であると分かれば、その滑稽さはなりを潜めた。
「おいおい、何言ってるんだよおたく。ここにちゃんと書類があるだろ。さっさと立ち退いてくれないと困るのよ」
奥にいた三人の中でリーダー的な位置にいる男は一枚の紙を取り出し、倒れている男にそれを見せる。
「偽者だ。僕はそんなものにサインをした覚えは無い」
「覚えがあろうがなかろうが、ここにお前のサインがあることは真実なんだよ。さっさと娘を連れて立ち退きな。それが嫌なら娘を売ってでも金を作るんだな」
男の肩に掴まっていた少女はわずかに震える。それを感じてか、男は少女の手に触れながら、立ち上がった。
「娘に手を出すな」
「へ、弱いくせに吼えやがる」
三人の男は笑い、そして一人が男に向かってきた。
「もう少し痛い目合えばこれを書いた記憶も戻るんじゃないか?」
立ち上がった男に向かって拳を…………
「ちぇすとぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「!?」
「!」
「ぐへっ!」
何かが起きた。その光景を見ていたほとんどの人間が一体何が起きたのか分からなかっただろう。ただ、結果だけなら、殴りかかろうとした男が何故か吹き飛ばされ、そして替わりに一人の少女がそこに立っていることだけは分かった。
その「何故」に答えるなら、今にも殴りかかろうとする男に向かって、ユニが飛び蹴りを放ち、男を吹き飛ばしたという過程が存在する。
「悪・即・滅!」
ユニは吹き飛ばされた男を一瞥し、直ぐに残り二人の男に向き直す。
「こんな人の前で何をやってるのよ!」
一喝。だが、すでに残り二人の男は冷静さを取り戻していた。闖入者が女、しかも年端もいかない少女であることを確認している。
「お嬢ちゃん。これはビジネスなんだよ。契約に基づいた。借金が返せないから替わりに宿をもらう。単純な話だ」
「だからといって暴力が許されるはず無いでしょ!」
二人の男を目の前にしてもユニは全く退かない。それどころか、より前へと進み、男を見据える。
「俺達だって暴力は嫌いさ。だが、払ってもらわなくちゃ俺達の飯代がなくなる。しょうがないことさ」
「ふ〜ん」
『!?』
全く知らない声が聞え、全員がそちらに視線を向けて、誰もが驚愕した。
再び闖入者。しかも先ほどよりもその驚きは大きかった。カガチが、二人のチンピラの間に立っていたのだ。しかも先ほどまで男が持っていたはずの紙を退屈そうに眺めながら後ろ側にいた男の肩にもたれかかっている。その動きを誰もが見ることができなかったのだ。
「何だ手前ぇ!」
男は黒尽くめのカガチを振り払うと、そのまま殴りかかる。しかし、その拳は全て空を切るだけだ。
「ん〜なんだ、この契約書? こんなの法務省に渡せば一発却下だぞ」
男の攻撃を全く見ずに避け続け、その間に紙を持っていた男に放る。しかし当然紙なので、ほとんど飛ばずに地に落ちていく。
「この!」
殴り続けても結局あたらず、痺れを切らして男は掴みにかかろうと体を低くして、飛び込んでくる。
「よっ」
体をひねると同時に、足を出す。そこにまるで吸い込まれるかのように男が飛び込んできた。
「な!」
足が引っかかり、男はそのまま滑り込むように倒れる。下にはカガチが放った紙があり、紙は男の下敷きになってしまった。
それを見ていた者達は思わず声をあげた。ただそのざわめきがどのような種類であるかは分からない。
「まだやるかい?」
カガチは残った男を見据える。男は明らかに動揺していて視線が定まっていない。目の前の男が自分では敵わないであろうことが理解できているのだろう。しかし、そこで男の視線が、一つに定まった。カガチはあえて気づかない振りをする。
「死ねぇ!」
ユニが蹴り飛ばした男が後ろからカガチに向かっていた。
「…………」
しかし、カガチは絶妙のタイミングでその攻撃を横にそれることで回避してしまう。
「な!」
「おい!」
二人の男がぶつかり合い、もつれながら倒れてしまった。
「そんな足腰じゃ俺には勝てないぞ」
もつれている二人を冷ややかに見つめながら、カガチはさきほど転ばした男に軽く蹴りを入れる。
「ぐ!」
その衝撃で意識を戻したのか、男は頭をふらつかせながら立ち上がった。
「さっさと消えろ。男と遊ぶ趣味は無いんだ」
三人はそれぞれ何かを言おうとしたが、結局小声で「覚えてろ」と呟き、それぞれ身を寄せながらその場から去っていった。
それを見届けるとざわめきながら群集も散り散りになって消えていく。
「大丈夫ですか?」
ユニは三人が消えた後、殴られた男の方へと近づいていく。
「ええ、大したことは無いです。ありがとうお嬢さん。それと…………」
カガチはボロボロの契約書を掴み取り男の方へとやってきた。
「ありがとうございます」
「別に。じゃじゃ馬娘の後始末をしただけさ」
「じゃじゃ馬って誰のことよ?」
睨むユニを見てカガチはニヤリと笑った。
「鏡を見てみれば分かるさ」
「この!」
ユニはカガチに向かって拳をふるうが、先ほどの男と同じように空を切るだけだった。
「それでも助かりました。僕はともかく、娘に何もなかったのはあなた方のおかげです」
男の横にいた少女は、男が自分に視線を向けていることに気づき直ぐに察したのか、カガチに向かって頭を下げた。
「別に感謝されることはないと思うが…………」
カガチは男を一通り、見てそう告げた。男の方はわずかながら表情を固めるが、しかし、それだけだった。
「まあ、そうだな。せっかくの縁だし。一杯奢ってくれないか?」
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