ハネミコ
深夜。新月の日。ほとんどの人が眠りにつくこの時間帯。町は静寂に満ちている。聞こえてくる音は少なく、鳥の羽ばたきすらも静寂を切る鋭い音に聞こえるほどだ。眠りについた街はどこか物寂しく、その静寂を厳粛に受けているかのようだった。特にこの住宅街である巣訪町(すわちょう)は光のほとんどは電柱からもれる街灯しかないほどで、昼とは違い、闇に沈んでいるかのように見える。
そんな中、一人の少年が全速力で自転車を漕いでいる。短い髪は風に揺れ、細めの顔立ちからはまだ冬の時期であるこの時に対して汗が滲んでいた。決して悪くない容姿ではあるが、かといって絶賛されるまででもない。そんな微妙な位置にいる彼は自転車を漕ぎながら時折、上をのぞく。まるで上空にいる何かを追いかけているかのように。
「ハァ! ハァ! ハァ!」
息が荒い。もう十分近くは自転車を漕ぎ続けている。だが、相手は決して待ってれはしない。それにこの足を止めたとき、一体どんな結果を招くか彼は理解していた。
「まだか、禊(みそぎ)!」
彼は叫び上を向く。すると彼の目から一人の少女が見えた。白と赤の出で立ち。誰が見てもそれは巫女の装束であることは分かる。だが、距離が遠すぎてそれ以外の部分は見分けることができない。そんな彼女は家から家にその家の屋根を軽々と飛び越えていく。重力を感じさせない跳躍は異様ではあるはずだが、どこか当たり前に受け入れられるほど彼女の跳躍は見ていて絵になっていた。
『もうちょっとだ。それより遅れるな! 通(とおる)!』
鼓膜ではない。直接脳に言葉が返ってくる。
「分かってるよ! 俺の脚が限界になる前に片付けてくれ!」
『その……つもりだ!』
彼女は持っていた玉串を振るう。目の前にあるのはボーリングの玉くらいの大きさの黒い何か。彼女が玉串を振るうと黒い何かは驚いたように再び違う家の屋根へと飛んでいってしまう。
「くっ!」
顔をゆがめ、彼女は黒い何かを追いかける。だが、黒い何かの速度は当初に比べてずいぶんと遅くなっていた。彼女は黒い何かの次に行くであろう屋根を予測し、一足飛びでその屋根に飛ぶ。
「!」
黒い何かは自分の前に来た巫女の少女を見て、とっさに止まってしまった。
「はっ!」
玉串を振るう。それは黒い何かに当たり、同時に黒い何かは一切の間をおかず、霧散した。
「ふぅ…………」
それを確認すると少女はゆっくりと息を吐く。
『終わったか?』
頭から響く声を聞き、彼女は屋根の下をのぞく。すると自転車を漕いでいた少年が立ち止まり、息も切れ切れにこちらを見ているのが分かった。
「ああ、バッチリだ」
そういって少年に向かって玉串を向けた。
『……そうか。んじゃ、さっさと帰ろうぜ。俺はもうくたくただ』
そう言いながら少年は座り込んだ。
「ふん、軟弱だな。私ならまだいけるぞ」
そう言って、屋根から少年の目の前に下りてくる。
「お前がいけても俺は無理だっての! お前だって自転車漕ぐこっちの身にもなれよ!」
その言葉に少女はカチンときた。
「五月蝿い! こっちだって危険な目にあっているんだぞ! 自転車を漕ぐくらいなんだ!」
「ふざけんな! こっちだって命がけなんだよ!」
「男がぐだぐだ言うな。見苦しい」
「見苦しいのはどっちだよ」
「何を!」
「何だよ!」
そんな言い争いをしている間に一人の人物がやってきた。
「何やってるんだ君たち?」
制服姿のその人を人はおまわりさんと呼ぶ。
『…………』
二人はおまわりさんを見た後、もう一度視線を絡ませる。そして………脱兎のごとく逃げ出した。
「あ! こら! 待ちなさい!」
おまわりさんは横につけていた自転車にまたがろうとするが、すでに目の前に二人の少年少女はいなくなっていた。
ここは巣訪町。『不思議なこと』が多い町。
これは巣訪町(すわちょう)に伝わる昔話。
昔々、ある国に悪い神様がいました。
悪い神様は人から食べ物を奪ったり家を壊したりして暴れ回り、
人々を困らせました。
困り果てた国の人は悪い神様を退治してもらおうと天の国にお願いにいきます。
すると天の国から一人の神様が雷と共に降りてきました。雷をお供に連れてきた神様は天の国でも一番の力持ちの神様で、困っている国の人を救おうとやって来たのです。
神様は悪い神様の元に赴き、力比べをしようと持ちかけます。悪い神様は自分こそ一番の力持ちだと自信を持っていたので、その力比べを受けて立ちます。二人は握手をしてお互いにその手に力を込めました。悪い神様は不思議な力で神様の手を氷付けにしようとしますが、その前に神様の力で悪い神様の手は足草のように小さくなってしまい、悪い神様は思わず手を離してしまいました。
力比べに負けた悪い神様は誰もいない土地へと逃げていみました。ですが神様はそれを追いかけその土地までやって来ます。
とうとう観念した悪い神様は「もうこの土地から出ませんから許してください」と言いました。神様はここで静かに暮らすなら許してやろうと言って天の国に帰っていきました。
悪い神様は言いつけどおり、その土地で悪いことはせずに暮らしたそうです。
めでたし、めでたし。
「で、その悪い神が最後にたどり着いたのが、この巣訪町というわけだ」
鳥の鳴き声が聞こえ、朝日が眩しいほどに輝いている朝の時間。
ある道場の真ん中。そこで二人の男が対峙していた。一人は昨日自転車を漕いでいた少年。名を沙庭通(さにわとおる)と言う。昨夜最終的にはおまわりさんに追いかけられそうになったところをまさに決死の力で逃げてきたのだが、その結果、今日は足が筋肉痛で痛くてたまらなかった。
「悪い神、つまり『力の奔流』はこの町に留まり、この土地を豊かにした。しかし、町が発展するにつれ、力は淀み、本来の機能を見失い暴走を引き起こしていった。結果、怪事件が多発することになってしまう」
一方先ほどから話を続けているもう一人の人物。なんというか『毛むくじゃら』という言葉が似合いそうな無精ひげを生やした四十代くらいの男だ。肌は黒く、今の神主の衣装がまったく似合っていない。アロハシャツにサングラスでもかければ逆にずいぶんと似合いそうだ。
彼はここの道場主であり、また、竹穂神社(たけほじんじゃ)の神主でもある武見岩戸(たけみいわと)という人物だ。
「いや、その話はもうずいぶん前にも聞きましたけど。で、その淀みを払うのが禊たち『建雷命(タケミカヅチ)』っていう集団なんでしょ」
「そう! 今代この町は禊のみが担当しているが、その昔はより多くのものが『建雷命』として働いていた。だが、禊だけでは完璧ではない」
「まあ、払うだけなら俺でもできますしね。ただ禊には力があるから俺より効率的に力を払えるし」
「最終的には通君。君の『審神者』の力が必要になるわけだ!」
岩戸はそう言って通を指差す。それに対して通はため息をつく。
「まあ、親に押しつけられた感じですけど」
「『審神者』はその残留する力を形にすることが出来る! すなわち、力を確定させてその暴走を未然に防ぐちからというわけだ!」
「あの、すいません。さっきからなんでそんなに力説してるんですか、岩戸さん」
「何を堅苦しい。私のことはダディと呼んでくれと言っているだろ。まあ百歩譲ってパパでもかまわないが」
「絶対に言いませんから。それに禊と俺が許婚同士って話しの有効性なんてとっくの昔に消滅してるじゃないですか」
「何を言っている。私と君の父君との血判はまだこの通り、有効だ!」
懐から取り出したのは一枚の書面。そこには達筆すぎてどのような意味のことが書いてあるか分からない文字と赤い判が見えた。まあ、実際酔った勢いで書いたものなので文字の判別はほとんどできない代物なのだが。
「酔った勢いという時点でアウトです。じゃあ、俺は学校があるんで行きますから」
「待て、マイサム! ぐお! しまった足がつった!」
のた打ち回る彼を見て、通は再びため息をつく。
「はぁ。禊も苦労するよなホント…………」
「バレンタインデー?」
学校の昼休み。昨夜巫女装束姿で淀みを払った彼女、武見禊(たけみみそぎ)はいつものように紙パックの豆乳をストロー飲んだ後、首を横に傾けた。
凛々しい顔立ちに長く細めの目はまるで真剣のような危険な美しさを思わせ、長い髪を根元で止めたポニーテールの髪型は余計に彼女の美しさ、というよりは格好良さを引き立てている。男性にも女性にももてる美人というのが彼女に対する周りの評価だ。
「何だ、それは?」
手作りのおにぎりを口の中に入れて、向かいの女子、立井相花(たていそうか)に尋ねる。
「禊…………ホントに知らないの?」
一方の相花は心底呆れたと言わんが如くの表情で禊をむっとさせる。だが禊の右斜め、相花の左斜めにいる座間牡丹(ざまぼたん)は相花の肩を叩いた。
「しょうがないよ。禊はカタカナの行事にはとことん弱いんだもん。クリスマスだって中学三年生で知ったんだもんね」
そう言われるとますます禊はむっとする。
神社の娘である禊はそういった行事に疎い。というより禊の両親が意図的にそういう行事を避けていた節がある。それもこれも両親が面白いからというふざけた理由なのだが、付き合わされる子供にはたまったものではない。そういうわけで禊はクリスマスは中学三年で知り、それまでの十数年間のクリスマスプレゼントが一度に来たことがあった。
「で、そのバレンタインデーとは何をする行事なんだ?」
知らないものは知らないのだ。この怒りは後に両親にぶつけるとして、禊は今はより建設的な話をすることにする。知らないのならば教えてもらう以外にない。
「バレンタインデーってのは、そうね、好きな異性にチョコレートを渡す日かな。まあ、主に女子が男子にだけど」
「…………ふ〜ん」
「うわ、食いつき悪いわね。禊」
「というより、その話をして私に何をさせたい?」
「いや、禊にはちょうどいいかと思って。ねえ?」
「うんうん。未だに素直になれない禊にはぴったりの行事じゃない?」
「何を言って…………」
言いかけて、前にいる三人の視線が別の所に動いていることに気づく。禊は思わず反射的にそちらに視線を移した。
すると、そこにいたのは数人の男子が自分たちと同様に昼食を取っている。その中心には、通の姿があった。
「……………」
と、思わず見入ってしまったことに気づき、再び三人の方に視線を向ける。すると明らかに三人の視線に不気味な色が灯っていた。
「な……なんだ?」
「何だって、ねえ、牡丹さん」
「ええ、見ましたわ相花さん。あの恋する乙女の視線」
「ば! 私はそんな視線など向けていない!」
「取り乱さない。取り乱さない」
禊の左斜め、相花の右斜め、そして牡丹の対面に座る月歩百合子(つきほゆりこ)は残り二人よりは冷静な視線で禊をなだめる。
「……とにかく。私と通はそういう関係では一切無い。断じて」
「え〜私たち一度も通君なんてこと言ってないけど」
「何でそこで沙庭の名前が出てくるのかなぁ〜?」
相花と牡丹は何ともいやらしい目で禊を追求する。
「お…前…た…ち……!」
ふるふると震えだす禊を見て、流石にやりすぎたと感知した二人は慌てて引いた。
「嫌だな〜禊。冗談よ冗談」
「そうそう。禊ってこういうこと本気になるから面白がって」
「まったく……」
溜飲を下げ、禊は再び豆乳を飲んだ。
「まあ、でもいまどきバレンタインデーで告白ってのもないか」
「そうねぇ。なんだか親しい異性の友人へのプレゼントって感じじゃない? 最近って」
「…………」
「そういう意味じゃ通君にチョコレートをあげるってのもありじゃない」
「だから、何でそうなる」
「だって、通君って禊の家に下宿してるんでしょ。今」
「まあな」
「それなら日ごろの感謝って気持ちでチョコをあげるのって普通だと思うわよ」
「…………別に感謝するようなことはされていない」
「本当に〜?」
「沙庭は結構気が利くから禊の知らんところで気を使ってるんじゃないのか?」
「それはない。断じてない」
昨夜のことを思い出し、禊は手を振る。
「それにアイツはいちいち五月蝿いんだぞ。私が家でくつろいでいるともう少し女っぽくできないのかとか。食事中だって箸の持ち方がおかしいとか注意するし」
ブツブツ言いながらおにぎりにかぶりつく。何とも豪快な食べっぷりに他の三人は圧倒されてしまう。
「そうかなぁ。まあ、禊じゃ気づかないだけかもね」
「だからそんなことはない」
「でも、バレンタインデーにチョコを送ると来月のホワイトデーに相手はお返しをしなきゃいけないのよ。大体三倍の」
「三倍? どういうことだ?」
「バレンタインデーとホワイトデーって対になっててバレンタインデーでチョコを送ると相手はそのチョコよりも三倍の価値のある品をホワイトデーにお返しするのよ。まあ、三倍ってのは冗談の範疇だろうけどね」
「ふ〜ん…………」
「通君、律儀だからそう言うとホントに三倍のお返しもらえそうじゃない?」
「そうね。彼はそういうタイプ」
「………………」
禊は黙り込む。一方の三人は視線が下に動いた禊を見て、自分たちの計画が見事成功したことを視線に交えて笑いあう。そして思う。今年のバレンタインは実に面白そうだなと。
「別に私は通のためにチョコレートを作るわけではない。確かに最近色々と面倒なことを押し付けたことも合ったし、それにチョコを渡しておけば来月には三倍になって返ってくるならこれはぜひ渡しておこうかなと…………」
放課後の禊の家。そして現在禊のキッチンでは二人の女性が陣取っていた。一人はエプロン姿の禊。白いデフォルメされた猫がプリントされており、禊自身にはちょっと不釣合いな部分があるのだが、禊はこういう可愛いものが大好きなので、家では気にせずこういうものを着たりする。ただ普段はエプロンを着てまで料理はしないのでエプロンは綺麗なままだ。
そしてもう一人。禊より身長が少々低く、童顔の女性。二人を並べてみるとまるで姉妹のようだが、彼女こそ禊の母親、武見命(たけみみこと)その人であった。
「はいはい。言い訳はそのくらいにしてチョコレートケーキを作るのね」
禊の話しなどまるで聞いておらず、着慣れた感じでエプロンを身に着けると冷蔵庫を開く。
「言い訳などしていない! というより母さん。なんで私にバレンタインの話をしなかったんだ?」
「え〜と……あ、そうそう。岩戸君がね。『娘に告白などまだ早い!』ってバレンタインを秘密にしていたの」
諸悪の根源は父親だったらしい。とりあえず後で殴り倒しておこうと心に誓う。それすら喜びそうなので禊にとっては頭の痛い話なのだが。
「…………まあいい。で、どうやって作るんだ?」
「そうねぇ。でも禊ちゃん。禊ちゃんにチョコレートケーキはちょっと敷居が高いと思うんだけど」
「その分返ってくる品も大きいということならむしろ挑戦すべきだ」
「う〜ん……まあ、いいか。それじゃあ、材料を出すわね」
『ただいま〜』
「!?」
「あら、通君が帰ってきたみたいね」
するとしばらくしてキッチンの戸が開くと、通が頭だけをキッチンに出す。
「おかえりなさい。通君」
「命さん。何か食べ物…………何やってんだ?」
通はキッチンに入るとすぐにエプロン姿(猫プリント)の禊を見つける。禊は思わず硬直し、しばらく動けなかったが、直ぐに硬直から脱した。
「別に。私が何をしていようと勝手だろ」
「いや、その姿から察するに何か作る気なのか? 頼むから毒の生成だけは止めてくれよ」
「馬鹿にするな! 私だって料理の一つくらいできる!」
「禊が料理するのって俺としてはおにぎりくらいしか見たことが無いんだけど。実際どうなんですか。命さん?」
「そうねぇ。禊ちゃんはちょっとおっちょこちょいで、大雑把だから細かい料理は苦手かしら。ざっくばらんに作る料理は結構得意よ」
「へぇ。じゃあ、焼きそばとかお好み焼きとか?」
「そうそう。まあ、お好み焼きは三回に一回は焦がすけどね」
「母さん!」
「フフフ。まあ、禊のことは放っておいて上げて。お菓子なら居間に置いてあるから」
「了解。まあ、せいぜいがんばってくれ」
そう言って通はキッチンから消えていった。
「…………ふふふ」
通の消えた戸に向かって不気味な笑みを浮かべる禊。
「絶対にギャフンと言わせてやる!」
拳を握り締める禊に対してそれを笑顔で命は見つめていた。
「さて、それじゃあ作り方ね」
「ずいぶんと色々あるけど」
「そうね。チョコレートケーキはウチでは大体三つのボウルを使うの。湯煎に入れてチョコレートを溶かすボウルとメレンゲを作るボウル。そして卵黄と砂糖を混ぜるボウルね。それぞれが出来上がったら別のボウルに入れていくんだけど」
「なるほど。では何から?」
「まずはチョコレートを溶かすところから行きましょう。ボウルにチョコレートとバターを入れて」
「了解」
言われた通り、チョコレートとバターをそのままむき出しで入れる。
「あ、禊ちゃん。まずは細かく砕いたり小さくしないと溶けずらいから大変よ」
「あ、なるほど」
ボウルに入れたバターとチョコレートを砕きはじめる。ただし、素手で。
「ぬわ! バターがぬちゃぬちゃする!」
「普通、ゴムベラかスプーンを使うものなんだけどねぇ」
「手がベタベタする…………」
バターとチョコレートまみれの手を掲げながら、かなりやる気を失っている禊。
「はいはい。そんなことより、湯煎でチョコレートを溶かしている間に卵黄と白身を分けて別々のボウルに入れるわ。禊ちゃん、卵は大丈夫?」
一方そんな禊に笑顔を向けつつ、卵を手にする命。そして次の瞬間テーブルの角に卵を当てる。綺麗な割れ目が出来るとそれを慎重に割った。下にはボウルがあり、半分になった殻から白身が溢れ、下のボウルに流れ落ちる。
「後はもう一度黄身をこっちの殻に送って…………」
もう一方に溜まっていた白身をボウルに落とし、最後に黄身だけになった卵を別のボウルに入れた。
「こんな感じ。どう?」
「…………そのくらい」
とは言ったものの禊の体は明らかに緊張している。チョコとバターまみれの手を洗い、さっそく一個卵を持つ。
「………………」
卵を睨みつける禊。
「禊ちゃん。卵は親の敵じゃないのよ」
「わ…分かってる! とりゃ!」
グシャッ!
『………………』
あえなく卵は粉砕された。
「たまたま! たまたまだ!」
恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしている禊は慌てて命の方を向いて必死に取り繕う。命は普段どおりの笑みを崩さないのだが、それが逆に禊にとっては余計に恥ずかしくなってしまった。
「まあ、それは今日の夕飯で使いましょう。はい、じゃあ今度はもっと慎重にね」
命は優しくそう言って禊にもう一個卵を渡す。
「う、うむ」
卵を凝視する禊。
結局、この後卵を三個夕食に提供することになった。
「…………母さん。私は菓子作りを舐めていた」
「あらあら、もう弱気発言?」
「まさか、こんな初歩で躓くとは思っていなかったし。やはり私みたいながさつな女に洋菓子なんて…………」
「禊ちゃん!」
「は、はい!」
「自分からがさつなんて言っちゃ駄目よ。禊ちゃんはとっても可愛いんだから」
「か、可愛くなんて…………」
「もう、自信を持ちなさい。あなたは私の娘なんだから。それに通君をギャフンと言わせるんでしょ」
「…………うん」
「よし。じゃあお母さんがちゃんとサポートしてあげるから、がんばりましょう」
「……うん!」
「それじゃあ、メレンゲを作りましょう」
「メレンゲ?」
「そう。白身を空気と攪拌することで出来るの。まあ詳しいことはお母さんもよく分からないけど、とにかく禊ちゃんはこの泡だて器で白身を思いっきりかき混ぜて」
「なるほど。そういうことなら得意だ」
「あ、一応言っておくけど『力』は使っちゃ駄目よ」
「こんなことでは使わない」
「それじゃあ、よろしく」
十分後
「……母さん。これはいつまで続けるんだ?」
「ん? まだまだ全然駄目ね」
「腕が痛くなってきた」
「がんばれ〜」
さらに十分後
「う……腕が……」
「もうちょっとかなぁ」
「……お…鬼……」
「失礼ねぇ〜」
もう十分後
「よし、完成ね」
「なんだか、もう腕の感覚が無い…………」
「ご苦労様。まあ、ハンドミキサーもあったんだけどね」
「何故使わない!」
そして、十分後。
「よし。後は30分焼いて二時間くらい置いておくだけね」
余熱をしておいた電子レンジにケーキを入れてスイッチを押す。
「はぁ…………」
くたくたになった禊はキッチンの椅子に座った。
「何だか仕事のときより疲れた…………」
「やり慣れないことをするからよ。それに仕事の時は禊ちゃんは力を使ってるから」
「そうかもしれない…………」
仕事、『建雷命』の仕事のとき、禊は二つの力を使っている。一つは『手力』。言って見れば怪力を手に入れる力だ。これは筋力には関係なく、土地の力を使って自分の周りに怪力を発揮することの出来る場を形成する。そのため自分の筋肉はほとんど酷使することはない。
そして、もう一つが『国立』。これはある異性の力を借り受け同調する能力でこれで通の『見鬼』の力をいつも借り受けている。『見鬼』とは力の淀みを見るための力。禊にもその力は備わっているが、それは非常に微弱で非常に大きな力の淀みしか見ることができないのだ。また『国立』はある一定の距離を保たないと力が消えてしまう。昨夜通が全速力で自転車を漕いでいたのはこれが理由だった。
「…………」
禊は一度、通のことを考えた。
通は去年突然家から追い出されこの町にやってきたのだ。まあ、それは通に『建雷命』の仕事を手伝ってもらうためだからという理由なのだが、その理由を聞かされた後、通は悩んでいたようだが、結局仕事を引き受けた。
けれど、今まで親しかった人と離れて危ない仕事をすることになった通は何を思っているのだろうか。全然そんな話をしてくれないので時折禊は不安になる。自分なら親しい人たちから離れるのは嫌だ。どんな理由があろうとも離れることはできないと思う。でも、通はこの町にいる。どうしてなのだろうか。不安ではあるが聞くことができない。
でも通は不平不満はよくこぼすが、最後には付き合ってくれる。それはとてもありがたいことだ。
たぶんバレンタインのチョコレートをあげようと思ったのはこの辺が理由だ。そう、感謝しているけど感謝できない自分が何だか嫌だったから。
「何考えてるの、禊ちゃん」
「え?」
ふと顔を上げると命が禊の顔をニコニコした顔で覗いている。
「別に……」
何だか先ほどの考えを全部見透かされているような気がして禊はぶっきらぼうに顔を背けた。
「フフ、当ててあげましょう。通君のことでしょう?」
「!?」
思わず命に顔を向けるが、それは正解の意であることに気づき、再びそっぽを向いた。そんな姿を見る命は笑顔のまま禊を抱きしめる。
「ちょ! 母さん!」
「もう! 可愛いなぁ、禊ちゃんは。そういうところをもっと通君に見せてあげればいいのに」
「なんでアイツの名前が出てくる!」
「禊ちゃんが本気を出せばどんな男の子だっていちころなのにねぇ」
「いちころって…………」
「フフ。がんばって」
「何を…………」
がんばればいいのやら。自分の心が捉えきれない禊はその言葉を飲み込んだ。
「おい、禊」
と、キッチンの扉が開いてそこから通が出てくる。
「…………何してるんですか?」
と、親子が抱き合っているこの状況に対して説明を求める通。
「ん? ああ、禊ちゃんがとっても可愛かったから思わず抱きしめちゃったの」
「母さん!」
「? まあいいですけど。禊。そろそろ『国立』やっておかないと夜の見回りが遅くなるぞ」
「え? あ、もうそんな時間か」
時計を見ると時間は六時を過ぎている。
「分かった。先に道場に行っててくれ」
「ああ。遅れるなよ」
「はいはい」
そっけなくそう返すと命を丁重に振り払うと立ち上がる。
「がんばってね、禊ちゃん」
「うん」
そう言ってキッチンから出て行く禊。その返事を聞いて命は苦笑する。
「う〜ん、仕事のことじゃないんだけどねぇ…………」
娘の鈍感さにほとほと困りながらもそれを楽しんでいる命は、そう呟いた。
道場の中心で通は正座になり精神を研ぎ澄ます。『国立』にはそのような精神集中は必要ないのだが、なんというかいつもの癖でそうしなければうまくいかないような気がするのだ。
目を瞑り通は自分の感覚がどんどん広がっていくことを錯覚ながらも感じ取っていた。だが、その感覚は直ぐにノイズと共にもろくも崩れ去る。それもこれも今日の昼休みのせいだ。
「で、何の用事なんだよ?」
昼休み。友人とバスケでもしようと歩き出した矢先に通は呼び止められた。通称クラス一のトラブルメーカズ。相花、牡丹、百合子の三人だ。
これまで何度も彼女たちのおかげでトラブルに巻き込まれた通は警戒しながら三人を見る。いかにも怪しいですと言いたげな視線で正直言えば即座に逃げ出したいのだが、廊下の端で三人が退路を塞いでいるため逃げることもできない。
「まあまあ、警戒するなよ通君」
「今なら酢昆布あげる」
「いや、いらないから。それより三人集まって俺のところに来ると面倒な事件に巻き込まれるんだが…………」
「それは気のせいだ沙庭」
「いや、本当だし」
「はぁ………。私たちは通君にとっても良いお話を持ってきたのに」
「うわ〜……嘘臭い…………」
「失礼な。君は今日何日か知っているかい?」
「は? え〜と、2月13日」
「正解! じゃあ明日は?」
「そりゃ2月14日だけど」
「違う! 違うぞ。若人!」
「同い年だろウチら」
「そんな細かいことはどうでもいい! 明日は何の日だ!」
「え〜と…………」
そこで明日が何の日であるか思い出す。
「いや、まあ……バレンタインデー……」
「声が小さい!」
「訳分からない。だから、バレンタインデーだろ」
「そう、その通りだ軍曹!」
「何時から軍曹になったんだ俺?」
「知ったことか!」
「いや、そこを知らないとか俺に言われても」
「そして良いことを教えてやる。明日貴様は必ず一つチョコレートがもらえるぞ」
「はぁ?」
「うむ、間違いなくもらえる」
「というわけだ」
すると三人は通から一歩退く。
「では」
「がんばりたまえ」
「避妊はしろよ」
「最後のはどうかと思うぞ」
しかし、そんなつっこみなどお構いなく、三人はそのまま消えていってしまった。
(相変わらず何がやりたいんだか、謎の多い連中だな)
正座をしながらそう思う。
だが、困ったことに彼自身それを心の奥底で楽しく感じているのも事実だった。
彼の元々住んでいた場所はある小さな島だ。そこでは『審神者』の力を持つものは崇拝の対象だった。神と同意の存在であり、自分は人ではなく神だった。
そんな自分に対して友達になろうとする人間などいようはずもない。もちろん話相手はいたが、それはどこか「させてもらっている」という意味合いの方が強かった。
だが、ここでは自分は他の人達と対等だ。もちろん環境が変わって辛いことだってある。だが、それ以上に彼は自分の力を畏怖しない人たちに囲まれることが嬉しかった。
誰も自分を知らないから知ってもらわなければならないし、そのためには努力も必要だ。ただそんないちいちする努力が通にとっては楽しかった。
(バレンタインデーか)
島にいたころは義理とはいえ数多くのチョコレートはもらったことはある。しかし今年は流石にそのようなことは無いだろうから諦めるという言葉は変だが、それすらも楽しく思っていたのだが。
(もらえるって一体誰に?)
必ず一つと言っていた。つまりあの三人は自分にチョコを渡す人がいると言っていることになる。
その考えに至ると何だか非常に緊張してくる。それはつまり、自分が誰かに好意を抱かれているということだ。
(うわ、本当に? いや、あの三人のことだから巧妙な罠の可能性も…………)
ちなみに通にとって彼女達の信用度はゼロよりも低い。
(悪戯の可能性が高いよな。でも……いや、まさか)
「おい、通?」
「!?」
ばっと目を開くと目の前に巫女装束姿の禊が立っていた。
「…………いつからいた?」
「? さっき来たばかりだ。それより珍しいな。私の気配に気づかないなんて」
してやったりという顔つきで、彼女は通の目の前に座る。
「考え事してた」
「ふ〜ん、どんな?」
「別に。くだらないことだよ」
「…………」
「何だよ、その冷たい目は」
「別に。道場で邪念を抱くのは良くないなと」
「いや、絶対お前の考えていることじゃないから」
「ふん、どうだか」
何故か不機嫌な禊に対してため息をつく。
謎といえばあの三人もそうだが、この目の前にいる少女も不思議なことばかりだ。この少女は通には何を考えているのかさっぱり分からない。突然怒ったり、突然涙を流したり、突然笑ったり。喜怒哀楽のスイッチが一体どこにあるのかまったく分からないのだ。そのくせ、自分は彼女をどうしても嫌えない。いや、それ以上に…………。
「それより、今日はどうする?」
禊が不機嫌な表情のまま尋ねる。
「何が?」
「国立の事」
不機嫌度がまた上がる。通は内心気を引き締める。これ以上不満度を上げると話をするのも難しくなる。
「俺のでいいだろ」
「あまり抜きすぎるとハゲると聞くが」
「怖いこと言うなよ」
「まあ、今日は私のでいいだろ」
そう言って、禊は髪留めを解いた。
(…………)
その姿に魅入られてしまう。ポニーテールにしていた髪がふわりと落ちて長い髪が背に流れる。その姿はどこか神々しくもあり、純粋に美しいと思えた。
(美人なんだよな、こいつ…………)
他の人間の価値基準は分からないが、少なくとも通にとっては禊は美人という枠内の人間だ。それは単純に容姿が優れているというわけではない。『見鬼』の力を持つ彼にとって容姿以上に彼女の纏うオーラのようなものが、美しいと思わせるのである。
普段の彼女は澄んだ青いオーラに包まれている。それは晴天の空のようなすがすがしい青で、見ていてこちらまで心が軽くなるような色だった。
(それなのになぁ…………)
どうしてあんなに凶暴なのか。天はニ物を与えずという言葉はまさにその通りだと思う。あの凶暴性がなければそれこそ男子が群がってもおかしくない。
(まあ、それがいいなと思ってるなぁ、俺)
そう考え付いて苦笑する。
一方禊は流れた髪から一本を掬い上げ力を込める。髪はその力に負けて切れてしまった。そしてその切れた髪をそっと通の方へと渡す。
「…………」
通はその髪の毛を手にする。この瞬間、なんともいえぬ背徳感のようなものを感じるのだが、通はそれを胸の中に押し込めて髪を口の中に含む。舌に絡む髪の毛を無理やり喉に押し込めていく。
「相変わらず、慣れないな」
「私だって同じだ。ただ国立には必要な儀式なんだから我慢しろ」
「分かってるよ」
国立の力を発揮するには条件と方法がある。条件は異性であることと年が近いこと。そしてその方法は相手の肉体の一部、または自分の肉体の一部を自分か相手の体内に入れるというものだ。最初は最も効率的で即効性のある血を使っていたのだが、毎回針で刺したりする作業が嫌になり、今では髪の毛や皮膚の一部を使うことが多い。ただ血と異なり作用するまでにしばらく時間がかかるため、早い時間に相手の体の一部を飲んでおく必要があるのだ。
禊の髪の毛を飲みきる。
「…………ふぅ。飲んだぞ」
何だか喉にまだ髪の毛が残っているような感じがするが、直ぐに収まるだろう。
「よし、それじゃあ後は効果が出たら見回りに行くとするか」
そう言って禊は立ち上がる。
「そうだな。あ、ところで」
「何だ?」
立ち上がりながら再び髪を整えている禊。先ほど気になっていたことがあったのだ。
「結局、今日、何作ってたんだ?」
「!」
すると突然、禊の顔が赤くなる。
(あ、やば…………)
どうやら地雷を踏んでしまったらしい。
「べ…別になんだっていいだろ!」
そう言うと禊は踵を返して道場からあっという間に消えていってしまった。
「……はぁ。やっぱり分からない…………」
『女心と秋の空』とはよく聞くが、しかし禊の心は秋の空より変わりやすい。
(あ〜! 何やってるんだ私は!)
恥ずかしくて顔を赤くしながら禊は道場を抜け出す。
(別に何のことは無いはずなのに。どうしてこんなに取り乱す)
通のことが分からない上に最近では自分のことすら分からなくなってきている。
(このもやもやした気持ちは一体…………)
通と話していたり、別れたりすると突然胸の中から押し寄せる不思議な感覚。不快とは言い切れないがこの気持ちが湧き上がるとうまく話しが出来なくなってしまう。体中が緊張で痺れ、指先が震えてくるのだ。
(まさか、病気じゃあ…………いや)
自分の知る限り特定の人物に会って発症する病気など聞いたことも無かった。
そんな風に考えているとその気持ちがようやく治まってくる。
「はぁ…………」
最近禊はこのもやもやした気持ちに悩まされてばかりだ。何か真剣に取り組んでいる際はこの気持ちを振り払うことも出来るのだが、一人でいるときや寝ているときなどふと気づくとこの気持ちが現れる。
「母さんに相談してみようかな…………」
自分で解決できないときには誰かに相談するのが一番だろう。もちろん解決できない問題によってだが、この問題は誰かがいなければ解決できない気がする。
「よし」
それならば善は急げだ。今なら夕飯の支度中だろうから手伝いながら聞いてみよう。
と、思った瞬間、禊の後ろから冷たい風が吹いた。
「え?」
その風は視認することが出来、まるで意思を持っているかのように廊下を進み、曲がっていく。とっさのことで何も出来なかったが、直ぐに気づく、『視認できる風』など存在しない。
「まさか!」
気づくのに少し遅れた。あれは。
『きゃ!』
命の悲鳴が聞こえる。
「母さん!」
即座に走り、キッチンに向かう。キッチンの扉は少し開いており、禊は乱暴にキッチンの扉を開けた。
「母さん!」
周りを見渡すと命が尻餅をついている。
「あ、禊ちゃん」
「母さん。何が!」
「うん、食器を出そうとしたら急に冷たい風が首筋を通って驚いちゃった」
ニコニコといつもの笑顔で。お尻をさすりながら命は禊が差し出した手を握る。どうやら怪我はないようなので、禊はほっとする。だが、次の瞬間、周りに『淀み』があることに気づき命を起こすと彼女を制して周りを見渡した。
「…………」
確かにいるが、それがどこにいるのかは分からない。まだ『国立』の効果が現れていないので『見鬼』の力が使えないのだ。それに今は玉串がないので払うこともできない。
「大丈夫ですか! 命さん!」
悲鳴を聞きつけて通もやって来た。思わず禊は叫ぶ。
「通! 力はどこにいる!」
一瞬、通は禊を見るが、事態を直ぐに察してかキッチン全体を見通す。通の『見鬼』の力は絶大だ。それこそわずかな力すら見逃すことはない。通はそれを見つけ、指をさす。
「電子レンジの中だ!」
その声が引き金だったのか、電子レンジが突然開くと風が巻き起こる。
『!?』
禊の視界がぼやける。そして、その右目が『変わった』。
その目は通の瞳。通が見る世界が禊の見る世界と重なった。
風であったそれは一匹のトンボだった。ただし色彩は黒と白の二色。トンボは普通のトンボの二倍の速度でキッチンを回り、そして、キッチンの窓、正確には禊の後ろの窓を見つけ、弾丸の様に飛んでいく。
「!」
そして、禊は見た。そのトンボの足に今日作ったチョコレートケーキが型ごと引っかかっている姿を。
捕まえることもできないそれを目で追いかけ、窓の外へと逃げる見送る。
「逃がしたか。大丈夫か禊。後、命さん」
二人の元へ駆け寄る通。禊の後ろに隠れていた命はこの場が収まったことを雰囲気でつかみ取り前に出てきた。
「ええ、大丈夫。禊ちゃんが守ってくれたから」
「そうですか。禊は?」
だが、禊にはその声は聞こえていなかった。すでに夜の闇が広がるこの時間帯で窓の先の闇をじっと見据えている。
「禊?」
瞬きもせずに窓の先を見つめている禊の表情が普段とあまりにも違うので、思わず尋ねる通。するとゆっくりと禊は頭を下げて、震え出す。
「おい、禊…………何かされたのか?」
心配になって肩に触れようとした、その瞬間。
「巫山戯るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
「!」
全身のバネを使って禊は跳んだ。辺りに衝撃波を残して窓から飛び出す。
「待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
「ば……お前、玉串持ってないだろ!」
しかし、そんな言葉などまるで聞いていない禊は闇の中へと消えていく。
「あの馬鹿。俺を置いてったら国立ちも意味ねぇじゃないか!」
「通君!」
振り向くとそこには玉串を持った命がいた。
「はい。禊ちゃんをお願いね」
玉串を手渡され、通は頷く。
「まあ、がんばってみます」
そう言って通は玄関に向かって走り出す。
「がんばってねぇ〜」
緊張感の無い声で手を振る命を後に通は手早く靴を履いて、走り出す。追いつけるかは微妙だが、禊一人だとどんな被害をもたらすか分からない。しかも今日の禊はまさに怒髪天を衝く勢いだった。
「頼むぜ、おい」
内心でため息をつきながら、禊に追いつくため闇へと消えた方へと向かった。
「巫山戯るな、巫山戯るな、巫山戯るな、巫山戯るなぁ!」
『手力』を全力で発動して前を行くトンボを追いかける。他のものならいざ知らず、何故よりにもよってあのケーキを持って行く。色々な感情がない交ぜのまま作ったあのケーキを取られもはやその理由すらも考え付く前に禊は激高していた。理由を考える前にキレた彼女はもはや目標達成以外のものは全く見えていない。
空高く舞い上がるトンボに対してアスファルトの道からコンクリートの壁を蹴って電柱を足場に跳躍し、トンボのというよりはケーキを掴むために手を伸ばす。
「この!」
だが、禊の跳躍よりも高くトンボは飛んでいきその手は空を切る。
「ちっ!」
電線を掴み、落下の速度を落として、地面に着地。
「へ?」
すると目の前にはスーツを着た男が立っていた。
「空から巫女さんが…………?」
「邪魔!」
「ひっ!」
一喝して再び走り出す。どんなことをしても絶対に取り戻す。そう思い、再び禊は跳ねた。
「くそ! 全然追いつけない!」
悪態をつきながら、通は走り続ける。
『国立』の効果で、ある程度禊の場所は把握できるのだが、その距離は『国立』の効果が保てるギリギリだ。しかし、ただ単純に距離が離れるわけではなく、時折戻ったり方向が変わるのでどうにか『国立』の効果は継続出来ている。
(それにしてもなんであいつはあんなに怒ってたんだ?)
走りながら考える。一瞬だったので通からはトンボはほとんど見えなかったのだが、何かを抱えているようには見えた。
(そういや、あいつ今日何か作ってたよな)
つまり、その作った何かをあのトンボに奪われたということか。
(それほど大切なものってわけか)
だが、それが一体どんなものであるかまるで想像ができない。
(とにかく今は追いつくことに専念するか)
玉串を握り直して走る。途中怯えてしゃがみ込んでいるサラリーマンが気になったが、今はそれどころではないので禊を追いかけることに集中する。
「とっ!」
方向が変わった。
「戻ってきた」
走る方向を変える。すると視界にようやく禊を捉えた。
「あの馬鹿……また無茶しやがって」
屋根の上を走る禊を見つけ、悪態をつきながら通は再び足を動かし始めた。
「このぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
自分の限界まで力を集中させてもう一度跳ぶ。だが、後一歩のところで掴みきれずにまた屋根に着地する。そのまま視界から逃すことの無いように相手を睨む。トンボは先ほどの高度からゆっくりと下がり、距離さえ詰めればジャンプすれば届くほどの位置にいる。その動きが馬鹿にされているように思えて、余計に禊の苛立たせる。
「なんで!」
再び跳ねようと足に力を込める。
『待て! 禊!』
跳ねようとする禊に対してその言葉が楔となり、その場に立ち止まる。後ろを向くと玉串を持った通の姿が見えた。しかし、それを無視してトンボを見る。
『だから、待てって!』
自分を無視して走り出しそうとする禊に対して、もう一度、通に止められる。
「五月蠅い! 私はあれを早く捕まえないといけないんだ!」
『見てれば分かる。それにしたってもっと作戦を練らなきゃ捕まえられないだろ』
「作戦? あんな高く飛ぶ相手に作戦なんて…………」
通の声が自身の気持ちを抑えていく。通の声が自分の怒りを吸い取ってしまったようだった。
『まあ、無いわけじゃないが』
「本当か!」
『ああ。まあその前に一つ聞かせてくれ」
「何だ?」
『…………なあ、禊。あいつに何を取られたんだ?』
「! どうして!」
『いや、ちらっと見ただけだから何かは分からないけど、それって大切なものなのか?』
「…………」
そう言われると困る。大切なものであることは確かだが、それを渡す相手に言うのはどうも恥ずかしい。
『はぁ…………』
しかし、黙っていると思念でため息をつかれてしまった。
「何故、ため息をつく!」
『別に。そんなに大切なものならさっさと取り返さないとな』
「いや……それは…………」
歯切れの悪い言葉しか出せない。これは自分のわがままみたいなもので、通を巻き込むわけには…………けれど。
『ちょっと、聞いてくれ』
そして、通はある作戦を告げた。
「本当にやるのか?」
躊躇いがちに尋ねる禊。
「ああ」
頷く通。この状況で躊躇う禊はどうかと思うのだが、まあ考えてみれば失敗すれば『手力』を持つ禊と違い、生身である通はただではすまない。しかし、何故か通に恐怖はなかった。
「それに、禊が失敗する訳ないだろ」
たぶん、これが一番の理由だろう。そう伝えると禊は一瞬、表情を失うが、直ぐに顔を赤くしてそっぽを向いた。
「あ……当たり前だ」
「じゃあ、何の心配もない。頼むぜ」
禊の表情から赤みが消え、今度は不適に笑う。
「……誰に言ってる」
「そうだな。じゃあ、頼む」
「ああ」
黒いトンボは相変わらず屋根の上を一定の速度で飛び続けている。それに追いつくために走る禊。屋根を蹴り、空を翔る。そしてタイミングを計り、力を脚力に集中する。
「はっ!」
全身をバネにして、一気に跳ねる。一本の矢になったような速度でトンボへと向かう禊。だが、それを察知してか再び彼女では届かない高度へと飛んでいく。だが、それは予想していたことだ。
「いっっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
そして、禊は手に抱えていた『通』を空中にいながら思いっきりトンボに投げつけた。
「うおおおおおおおお!」
カタパルトから射出される戦闘機のように禊の跳躍よりも早くトンボへ向かう。その速度はトンボでも方向を変える時間を与えないほどに。
「おおおおおおおおお!」
右手に持った玉串を振るう。玉串の紙がトンボを捉え、トンボは間をおかずに消滅する。残ったのはあのケーキだけだ。それを左手で掴む。
「よ…………」
だが、言葉は続かない。禊より与えられた速度は重力の壁に阻まれ、もはやその効力を失っていた。後は重力に従い落ちるのみだ。
「ぬわああああああああああ!」
一瞬の制止の後は地面への落下。ビル五階以上に相当するその高さから地面に落ちれば即死は免れない。
「通っ!!」
だが、地面に落ちるよりも早く横より煌めく存在が到着する。
「禊!」
伸ばされた手に向かって玉串を捨ててすがりつく。この手を逃したら後は地面にダイブするしかない。
『!!』
二人の手がしっかりと握られる。禊は通を引っ張り抱え上げ、重力の作用を無効化してアスファルトの道路へと着地した。
「大丈夫か。通?」
抱えていた腕をほどく。すると通はその場にしゃがみ込んだ。
「はぁ〜、死ぬかと思った」
大きく息を吐いて、空を見上げる。
「……全く無茶苦茶だ。私が失敗したらどうする気だったんだ?」
「まあ…………さっきも言っただろ。お前が失敗なんてするなんて思ってなかったから」
「…………馬鹿だな、通は」
「何だよ、それ」
「ふん!」
何故かそっぽを向く禊に対して頭を掻く通。
「あ、そうだ。これ…………」
左手で掴んだケーキを禊に渡す。
「あ…………」
「え?」
振り向く禊が見たものはボロボロになってしまったケーキだった。
「………………」
「え〜と…………すまん」
「…………………………」
じっとケーキを見つめる禊。
「いや、本当に悪かった。ごめん」
「………………」
すっと禊は下を向く。その表情が読み取れず、通は焦る。
「禊?」
「………………もういい」
「え?」
顔を上げた禊の顔は不機嫌そのもので、言い訳は一切できない雰囲気を漂わせている。
「え〜と…………」
「勿体ないから、通にあげる」
「…………え、あ、はい」
うなずき、通は両手でケーキを手にする。
「それで、来月は三倍返しだから」
「三倍?」
「三倍! 分かったな!」
「り……了解」
もはや通は頷くしかない。
「じゃあ、私は帰る」
「…………ああ」
禊を見送る通。禊の後ろ姿を見ながら両手に持ったケーキを一度見つめる。
「で、これって結局何なんだ?」
もはや誰も答えてはくれない問いは夜空へ溶けて消えていった。
そして、禊は…………
「…………」
帰り道を歩く。色々あったが、どうにか目的は達成した。周りから見れば達成とは程遠いのだが、しかし彼女にとっては通に渡せたことが全てなので、それ以外のことは気にしてはいない。
「…………」
何だか気持ちが軽くなっていく。何でだろうか。今なら『手力』を使わなくても跳べそうな気がした。
「…………ふふ」
こっそりと笑う。
それは、誰かに見せるのが勿体ないほどの素敵な笑顔だった。
たぶん、明日ご機嫌の禊を見て三人はほくそ笑むだろう。
しかし彼女にはそんな考えは今は無い。
禊は夜空に向けて歩き、走り、跳ねる。
ここは巣訪町。『不思議なこと』が多い町………………
終わり