ステップアップ

 
 大学の冬休みは暇だ。もちろん友人と遊びに行ってもいいんだが、その友人達は全員帰省中。仕方なしに俺も田舎に帰ることにした。いや、仕方なしという訳じゃない。俺には帰りたい理由もあった。
 
 
「寒っ!!」
 
 駅を出て開口一番の台詞。東北の寒さを舐めていた。ダウンジャケットまで着てるのに、寒さが素通りして来るみたいだ。
 
「くそ、待ってるって言ってたくせに来てないのかよ!」
 
 俺は持っているバックを下ろし、辺りを見渡す。
 
 殺風景な場所だ。小さな町の小さな駅。新幹線が通っているとは思えない駅から俺は町を見ていた。雪は降ってはいないのが救いだが、本当に何もない。そこにいれば二日で飽きてしまうような田舎だ。これが、俺の生まれ育った町。とはいっても、車で三十分かけないと家には到着しないのだが。
 
「ったく…………」
 
 ポケットから携帯を取りだし、電話帳を開く。今日は姉貴が来るって話しだったから姉貴の携帯にかけるのが一番だろう。あの姉貴のことだから、まだ家にいるって可能性もある。
 
「あー。たっく〜ん!」
 
 誰かの声が、聞こえた。
 
「え?」
 
 鼓動が跳ねる。今一番聞きたい人の声が聞こえたからだ。俺はすぐに声の聞こえた後ろを振り返る。そこには
 
「久しぶり」
 
「このみ」
 
 俺の前に立っている少女。雪のような白い肌に細身の体つき。大きな瞳に短めの髪を後ろの両脇でちょこんと結んでいる彼女。幾分成長したようにも見えるが、年齢よりも三つは若く見える。
 
 佐々木このみ。
 
 俺の幼なじみだ。
 
「どうしたんだ。もしかしてこれからどっかに行くのか?」
 
「違うよ。たっくんを迎えに来たんだよ」
 
 少し機嫌を悪くしたか、口をふくらませる。
 
「いや、このみは車なんて運転できないだろ?」
 
 それ以前に免許を取れる年じゃない。
 
「うん。たっくんがもうすぐ帰ってく来るって聞いて、たっくんの家に行ったら七海お姉ちゃんが今から迎えに行くから暇なら付き合ってって」
 
「なるほど」
 
 合点がいった。つまり暇な運転の生け贄にされたわけか。
 
「そりゃまたご苦労」
 
 このみに敬意を表して敬礼する。
 
「いえいえ〜。たっくんに早く会いたかったから」
 
 このみは俺の敬礼に花が咲いたような笑顔で答えた。俺はその笑顔に鼓動が早くなるのを感じた。本当にこのみの笑顔は素敵だと思う。純粋な笑顔で、見ているとこちらまで幸せにさせられる。
 
「それじゃ行こう、たっくん。七海お姉ちゃんが待ってるよ」
 
 けど、そんな笑顔を見ると、同時に黒い煙のようなものが胸の中を焦がすのを感じる。
 
「ああ」
 
 後ろを振り向くこのみに、俺は小さく溜息をついた。
 
 
 このみを一体、何時好きになったかは覚えていない。家が近所で当然直ぐに幼なじみとして仲良くなった俺とこのみは、小学から高校まで同じ学校だった。
 
 幼なじみが親友となり、そしてこの気持ちが好きでると気づいたとき、俺はどこか絶望的な気分になった。このみが好きであることが重荷だった訳じゃない。ただ、このみはあまりにも純粋で、好きって気持ちに形がないのだ。
 
 彼女の好きは俺の好きとは次元が違う。たぶん俺が好きだって言ってもこのみは笑って「私も」と言うだろう。俺とは全く違う意味でだ。
 
 
「よう、来たか琢己」
 
 運転席に乗っていたのは、煙草に見せかけたシナモンスティックを口に加えている女性。見た目だけは美人な俺の姉、荒巻七海だ。
 
「悪いな。迎えに来てもらって」
 
「全くよ。後で蕎麦、奢れ」
 
 冗談では無くマジで言っていることが、長年のつき合いで理解できる。
 
「高えよ。もうちっと安いのにしてくれ」
 
 絶対に奢る事になるのだから、被害は最小限度にしておかないと。
 
「ぬ〜。じゃあ、豚丼でいいや」
 
「はいはい」
 
 そう言いながら荷物をトランクに入れて、助手席に座る。
 
「お願い、しまーす」
 
 このみは俺が入った後に、後部座席に座った。
 
「このみ、ありがと。馬鹿を呼びに行ってもらって」
 
「馬鹿は余計だ」
 
「愚弟は黙ってろ。何ならあんたが運転しなさいよ。免許、持ってるんでしょ?」
 
「え? たっくん、免許持ってるの?」
 
 運転席と助手席の間に入り込むこのみ。
 
「ああ。今年な。そういえばこのみには言ってなかったっけ?」
 
 メールや電話ではよく話すが、そういった話しはしてなかったな。
 
「聞いてない。もー、たっくん。何でそんな重要なこと言わないの?」
 
「そんなに重要なことか? それって」
 
「重要だよー。これでたっくんと一緒に遠くの町まで遊びに行けるんだもん」
 
「つまり、俺にお前の買い物の手伝いをさせたい訳か」
 
「…………えへへ」
 
「笑ってごまかすな」
 
 軽く、手の甲でこのみの鼻を叩いた。
 
「はう! 痛いよ〜たっくん。」
 
 鼻を押さえて抗議するこのみ。そんなに強くは叩いてないけど。
 
「そんじゃ、行くわよ。しっかりシートベルトして座ってなさい。舌噛むから」
 
「なあ、なんでそんな不安になるような発言をするんだ?」
 
「…………」
 
「無言で笑うな。マジで怖いから」
 
「んじゃ、レッツゴー!」
 
 そして、我が姉はアクセルを躊躇なく踏み込んだ。
 
 
「ぬおーーーーー!!」
 
「んにゃぁぁぁぁぁぁ!!」
 
「ハハハハハハハハハ!!」
 
 
 五分後
 
 
「で、結局こうなるのか」
 
 運転席に俺。助手席に我が姉、七海。そして後部座席には
 
「う〜ん、う〜ん」
 
 寝込んでいるこのみ。
 
「行きはどうやったんだ?」
 
「このみは静かだったわよ」
 
「そりゃ気絶したんだろ」
 
 俺は溜息をついて、ハンドルを握った。
 
「雪道だからゆっくり行くぞ」
 
「ゆっくりって六十q?」
 
「黙ってろスピード狂」
 
 免許を取ってまだ半年足らずだ。慎重に行くべきだろう。ゆっくりとアクセルを踏んで、静かに走り出す。速度を四十qくらいに抑えてほとんど徐行運転だ。
 
「はぁ。退屈〜」
 
 下唇を前に出して、シナモンスティックを上に動かす。
 
「死ぬよりましだ」
 
 バックミラーでこのみを確認する。先ほどまではうめき声を上げていたが、今は静かに寝ているみたいだ。
 
「…………」
 
 寝顔を見て安心し、俺はハンドルを握り直す。
 
「……まーだ告白してないの」
 
「黙れ」
 
 何故か知らないが、姉貴は俺がこのみを好きだということを知っている。姉貴はスティックを人差し指と中指の間で掴み、口から離す。
 
「まったく、さっさと告白して玉砕してくればいいのに」
 
「うるさいなぁ。俺の勝手だろ」
 
 この話題から早く離れたい。俺は不機嫌になり、怒りの混じった言葉で姉貴を牽制する。それに気づいたのか、姉貴は俺を見ずに前の雪の山を見る。
 
「まあ、このみはちょっと子供っぽいところがあるからねぇ。もう少し大人になれば、そういう駆け引きってのも分かってくるけど」
 
「………………」
 
 黙ってハンドルを回す。このみは純粋だ。ただ、その純粋な部分が、時に罪になったりもする。俺だって、打算無しにあいつに付き合っている訳じゃない。そう考えている俺は、このみの明るさや無邪気さに時折胸を痛める。自分がずいぶんと汚れているように感じてしまうからだ。
 
「あ、そうだ」
 
 姉貴が突然シナモンスティックを加え直すと上着のポケットを探り出す。
 
「何してんだって、暴れるなっての!」
 
 上着を探している内に運転席にまで腕が伸び、俺の顔が揺らされる。こっちは運転一年目の上に、雪道なんて走ったことがないってのに。
 
「お、あったあった。ほれ、これ」
 
 と何かを差し出したらしいが、当然俺は見ている暇はない。
 
「何だよ?」
 
「人の顔を見て話しなさい」
 
「無理だよ! 状況見て言えよ馬鹿姉貴!」
 
「ほ〜、そういう態度を取るんだ〜」
 
 何とも意地の悪い声が聞こえてくる。こういう場合の姉貴は危険だ。
 
「映画無料券二枚。あんたとこのみに渡そうと思ったんだけどなぁ〜」
 
「!!」
 
 何だって!
 
「ちょっと待て、姉貴」
 
「ん〜。な〜に〜?」
 
 腹が立つくらい間延びした言い方。これだとただじゃ済みそうにないな。
 
「それは本当か?」
 
「見れば分かるじゃん」
 
「見られないんだよ! 運転してるから!」
 
 先ほどまでなら余裕もあったが、現在は連続カーブの崖だ。こんなところで一瞬でも目を離したら命がなくなる。
 
「マジマジ。知り合いからもらったんだけど私、映画って興味ないからさぁ。せっかくだから二人に有効活用してもらおうと思って」
 
 冗談ではないようだ。確か、最近好みの見たいと言っていたコメディ映画が公開されたはずだ。ただ映画を見に行くといれば警戒されてしまうかもしれないが(このみに限って警戒はないだろうが)タダ券があるとは話しもつけやすい。
 
「姉貴」
 
「姉貴?」
 
 全く持って不服であると言いたげな口調。ここは我慢だ
 
「お姉様」
 
「なーに? 愚弟」
 
「そのタダ券。卑しい、この私に頂けないでしょうか?」
 
「どうしようかなー?」
 
 何とも楽しそうに俺をいじめる姉。鬼か、あんたは。
 
「欲しい?」
 
「欲しいに決まってるだろ」
 
「なら、分かってるわね」
 
 絶対ニヤリと危険きわまりない笑みを浮かべている。俺の経験則が、姉貴の皺から口元のと引きつり方など細部まで想像できた。
 
「………………何だよ」
 
「タダ券の上に絶好の口実。蕎麦くらいじゃ足りないわよ〜」
 
「くっ!」
 
 ここからは、どの程度まで損害を抑えるかの交渉だ。
 
「天ぷら、とろろ」
 
「肉〜」
 
「九百八十バイキング」
 
「じゅじゅ〜」
 
「四千OFF」
 
「ふむ、そんなところか」
 
 姉貴が折れる。とりあえず悪くない条件だ。俺がごはんものだけなら、姉貴の言った焼き肉屋なら五千位で済むはずだ。
 
「んじゃ、日取りは後でね」
 
「はいはい」
 
 痛い出費だ。しかし十分な価値はあるだろう。
 
「………………」
 
 俺はバックミラー越しでこのみをみる。
 
「す〜す〜」
 
 眠っている。聞かれたらまずい話しだし、眠っているに越したことはないが、何とも幸せそうな寝顔だ。
 
「………………」
 
 俺は前に集中する。
 
「あのさ〜琢己」
 
 タダ券をしまってるのか、またごそごそとやっている姉貴から声がかかった。
 
「何だよ?」
 
「このみのこと、好き?」
 
 今更そんなことを聞く。俺は投げやり気味に
 
「あったり前だろ」
 
 吐き捨てるように呟いた。
 
「ふ〜ん」
 
 何がおもしろいのか。姉貴はずいぶんと楽しそうにシナモンスティックをかじっていた。
 
 
 その後、無事に家に帰った俺は起きあがったこのみに、タダ券のことを話すと大喜び。そんなわけで、デートは(とは言っても俺の中だけだが)次の日に決まってしまった。
 
 何かを期待している訳じゃないが、期待しない訳にはいかないそんな日を待ち遠しく、俺は床についた。
 
 
 次の日
 
 
 天気は快晴。何とも最高のデート日和だ。この時期に晴れるなんて奇跡としか言いようがない。
 
 車は親父から借りてあるので問題はない。しかし、服などよそ行きのものなど持ってきてなかったので、いつも通りのジーパンにタートルネックのセーターと締まりがない。こんなことなら、もっと服を持ってくれば良かった。家に何か置いてあるかと思ったら、姉貴がリサイクルショップで全て売り払ったという話しになり、奢りの焼き肉を二千円カットで締結した。しかし姉貴の稼ぎはたぶんその十倍だ。いつか絶対姉貴の貴金属系を質屋に売ってやる。
 
 そんなことを心に誓いつつ、俺は居間でこのみが来るのを待っていた。親父もお袋も今日は仕事だし、姉貴は九時を過ぎた程度の時間じゃ起きることはない。
 
「………………」
 
 秒針がやけに遅く感じる。デートなんて思うから緊張するのだ。もう少し気楽に……………… 
 
「できたらやってるっての」
 
 自分で自分に突っ込みながら、時間を確認する。約束の時間二十秒前。このみは時間にはおよそ五分程度の誤差内で来る。つまり、五分早いか五分遅いか、その間ということだ。だから俺は約束の時間五分前から、この緊張状態が続いている。
 
「はぁ…………」 
 
 本当、何を期待しているのやら。あいつにとってはただの遊びだ。そんな奴に対して緊張するのは、空回りしすぎだ。
 
 しかし、それでも好きな人と二人っきりで遊びに行くという緊張感はつきまとう。それにこのみに直接会うのは本当に久しぶりだ。そんな状況が余計に俺を緊張させている。
 
「お邪魔しまーす」
 
「!?」
 
 来た。遂に来た。
 
 時間はちょうど。心臓の音が聞こえるほどに高鳴っている。
 
「はーい」
 
 至って普通に呼び声に答える。この言葉を紡ぎ出すのに、どれほど労力を使用しているのか、たぶんこのみには分からないだろう。
 
 俺は立ち上がり、歩き出す。出来る限り平静を装いながら、引き戸を開けて、玄関の前に出た。
 
「おはよう、たっくん」
 
「おっす…………」
 
 言葉が続かなかった。
 
 このみの今日の姿は、普段とがらりと変わっていたのだ。普段は髪を結んでいるのだが、それを結ばずにストレートにしている。それに薄くだが、化粧をしているみたいでいつもより肌が白くて俺はどきまぎしてしまった。
 
「あの、たっくん。私、変かな?」
 
「え?」
 
「今日ね。たまにはおめかししてみようと思って、お母さんに手伝ってもらったの。でも……自信なくて…………」
 
 珍しく表情が沈む。似合わないなんて、そんなことはない。このみの姿は普段より大人びてはいるが、それが新鮮で、俺を余計に緊張させている。
 
「いや、俺はよく似合ってると思うぞ」
 
 もっと何か言えればいいのに、こんな安っぽい事しか言えない自分に腹が立つ。
 
「……本当?」
 
 このみはまだ自信なさげに呟く。
 
「ホント、ホント。普段と違うから驚いたけど」
 
 内心では焦りと緊張がない交ぜだが、必死になってこのみの自信を取り戻せるように誉める。
 
「…………そっか。良かった」
 
 このみはようやく小さく笑った。何とも不思議な輝きを内側に留めているような小さな笑み。
 
「それじゃあ、行くか。このみ」
 
「うん!」
 
 元気に普段通りのこのみ。服装や化粧をしても、矢っ張りいつものこのみだ。それを感じて幾分かの緊張がほぐれた。
 
 
「お願いしまーす」
 
 このみが助手席に座り、俺はバックミラーを確認しつつ、エンジンのキーを回した。
 
「映画館なんて久しぶりだから楽しみだよ」
 
 嬉しさを身体で表現するかのように、肩を踊らせるこのみ。ギアをパーキングからリアにして車庫を出る。家の隣が車庫で、普段は後ろから入れるのだが、昨日の車庫入れは俺だったので、前から入れてしまったのだ。
 
 道路沿いでもないので、車も人も通りはしない。しかし俺は慎重に車を出すと、今度はドライブにギアを入れる。これから一時間のドライブだ。一時間の長時間運転は初めてなので、これはこれで緊張する。
 
「たっくん。大丈夫?」
 
「何が?」
 
「ん〜何となく」
 
「………………」
 
 緊張が顔に出てしまったか。失敗、失敗。女を心配させるなんて、男の沽券に関わる。俺はニヤリと笑う。出来る限り姉貴を真似て。
 
「大丈夫に決まってるだろ」
 
 アクセルを踏む。緊張はそれと同時に吹き飛んだ。
 
 
「そっか、もう、そんな時期だったな」
 
「そうだよ。忘れてたの。たっくん」
 
 緊張もほぐれ、ようやくこのみと普段通りの会話が出来るようになった。どうしてこの話題になったのか分からないが、いつの間にかバレンタインデーの話しだ。
 
「すっかり。もらう人なんて、あっちじゃいないからな」
 
「そうなんだ。たっくんって、もてそうだけど」
 
「んなこと無いって。告白なんて一度もされたことないし」
 
「ふ〜ん…………」
 
 何度か頷き、しきりに考えているこのみ。
 
「どうした? このみ」
 
「え、ううん。何でもない」
 
 何かありそうだったが、はぐらかされるだけだろうと思い、話題を変える。
 
「それより知ってるか。このみ」
 
「ううん、知らない」
 
「まだ、何も言ってないぞ」
 
「でも、たっくんの言うことは、大抵知らない事だもん。で、何?」
 
「バレンタイン、ホワイトデーってあるだろ。実はその次の四月にそれの続きがあるんだ」「え、そうなの?」
 
「オレンジデーって言ってその日はオレンジ色の品をお互いが交換し合うんだってさ」
 
「へぇ〜。知らなかった〜」
 
「まあ、あからさまに狙ってる感じだけどな」
 
「そうだね」
 
 車を運転しているので、このみの表情を見ることは出来ないが、たぶんこのみは笑っているのだろう。それだけでほっとする。 
 
 車は順調に進んでいた。
 
 
「到着」
 
「到着〜」
 
 映画館の駐車場に車を停める。この映画館はデパートと同じ施設に存在するようなものではなく、映画館それ自体が独立して建っている。そのためスクリーンが八つもあり、中は完全予約制。立ち見無しでゆっくりと見ることが出来る。都会でも滅多にないような大型スクリーンの上に売店も充実していて俺たちは映画を見に行くならここと決めている。 ただかなり大きな建物なので、メインストリートから離れているのが、欠点と言えば欠点だが。
 
「さて、何を見るか…………」
 
 このみの見たかった映画の上映時間は、頭に入れてある。この時間ならまだ二十分近くの時間がある。十分前から入場が開始されるから、余裕で入れそうだ。
 
 
 二人で並んで映画館に入る。薄暗いが大きなロビーの右側には、チケットの販売が。左側には、ポップコーンなどが売られている売店があり、奥にはスクリーンに通じている通路がある。
 
「どうする。このみ」
 
「う〜ん…………」
 
 チケット売り場の上には、これから上映される映画のタイトルと時間、そして混み具合が書かれている。平日なので、どの映画も『十分お座りになれます』と表示されていた。
 
「たっくん、私、あれが見たいんだけど」
 
「ん?」
 
 てっきりコメディ映画かと思ったが、このみが指さした映画はちょっとお堅いドキュメンタリー映画だった。ある有名人の体験を元にした作品で、映像美や音楽にはかなり定評があるが、取り上げているネタがネタだけに、あまり万人向けでない作品だ。
 
 珍しい。このみがこんな映画に興味を示すとは。
 
「あれで、いいのか?」
 
 確認を取る。
 
「うん。ちょっと見てみたかったから…………」
 
「ふむ」
 
 まあ、俺も決して見たくないという映画ではない。時間も狙っていたコメディ映画と同じ時間なのでちょうどいい。 
 
「じゃあ、あれにするか」
 
「うん」
 
 俺はチケット売り場へ向かった。
 
「『ノットスリップアウト』を二枚」
 
「席が後ろ、真ん中、前とありますが」
 
「後ろで」
 
「かしこまりました」
 
「あ、これでお願いします」
 
 タダ券を渡す。
 
「はい、それではスクリーン八番になります。十分前に放送がありますので」
 
「はい」
 
 チケットを受け取り、その場から離れる。売店近くにいたこのみにチケットを渡す。
 
「ありがとう。たっくん」
 
「別に礼を言われる筋合いはないさ。タダ券だし」
 
「でも、ありがとう」
 
 笑うのではなく、微笑むこのみ。太陽みたいな笑みではないが、花のような小さくふんわりとした笑みに、思わず見とれてかける。
 
「食べ物買うか。このみはキャラメルポップコーンだっけ?」
 
 俺はそれを誤魔化すように売店に向かい歩き出した。
 
「あ、待ってよ〜」
 
 このみは急いで俺に追いつき、俺の手を掴んだ。
 
「!?」
 
 いきなりだったので、思わず手を離そうとしてしまうが、それよりこのみの力の方が強かった。手を引っ張られ軽く体勢を崩す。
 
「いきなり何をする」
 
 一度、不意打ちを越えてれば、何とか落ち着くことが出来る。しかし手から流れる汗はどうにも出来ない。気づかなければいいけど。
 
「たっくんが、勝手に行っちゃうんだもん」
 
 無邪気に笑って、手を振る。握られた手はそのままで、俺の手もその振りに合わせて大きく振り子のように振れた。
 
「いらっしゃいませ」
 
 売店の前まで行くと店員がおじぎをする。
 
「え〜と…………」
 
 ポップコーンのLサイズを頼もうかと思ったが、ここのLサイズは桁が違うことを思い出す。最初に来た頃、間違ってLサイズを頼み、出てきたのは小さなバケツほどの大きさのケースに山盛りに盛られたポップコーンだった。あれは一人では無く、数人のメンバーでなくては制覇は無理だろう。
 
「ポップコーンセットを一つ。で後はコーヒーを一つもらおうかな」
 
「ポップコーンには塩とキャメルがありますが」
 
「キャラメルだよな?」
 
「……うん」
 
 まだ、手を握っているこのみは、小さく頷いた。
 
「ドリンクの方は、こちらになりますが」
 
 店員はカウンターのメニューリストを前に差し出した。
 
「このみはドリンクで良いよな?」
 
「あ、あの。私もコーヒーでいいかな?」
 
「え?」
 
 珍しい。いや、これは初めてじゃないか? このみは甘党だからコーヒーなど飲まないと思ったのに。
 
「駄目?」
 
「別にいいけど。このみ、コーヒーなんて飲めたっけ?」
 
「私だってコーヒーくらい飲めるよ〜」
 
 口を尖らせる。どうやら失言だったようだ。
 
「そうか。じゃあ、コーヒー一つと…………オレンジジュース」
 
 コーヒーはセットに入っていないので、必然的に俺の方がドリンクになる。
 
「かしこまりました。合計で七百三十円になります」
 
 財布から千円札を取り出し、店員に渡す。
 
「千円からお預かり致します。二百七十円のお返しですね。少々お待ちください」
 
 店員はさっそくオレンジジュースの準備を始め、オレンジジュースを注いでいる間にポップコーンを準備し、コーヒーを完成させた。プラスチックの容器にそれらを詰め込んで渡される。
 
「ありがとうございました」
 
 容器を持って売店を離れる。ちょうど時間だ。
 
「よし、行くか。このみ」
 
「了解〜」
 
 このみはようやく手を離し敬礼をする。その仕草に俺は苦笑しつつ、スクリーンに向かった。
 
 
 スクリーンの中は少し薄暗い。だが、見通せないほどではないので、俺たちの予約席は直ぐに見つかった。
 
「やっぱり空いてるな」
 
 今のところ俺とこのみ以外はここには誰もいない。玄人向けの映画だから、なおのこと人は来ないだろう。
 
 隣同士に座り、プラスチックの容器を二人の間の手もたれの上に置く。
 
「はいよ」
 
 このみにコーヒーを渡す。
 
「ありがとう」
 
 そのコーヒーを受け取り、まるで暖を取るかのように両手で包み込むように持つ。
 
「………………」
 
 そのまましばらく、コーヒーを見つめるこのみ。それこそ視線で穴が開くのではないかと思うくらいだ。一体どうしてかと考えて、ある事を思いつく。
 
「そういや、砂糖もシロップも持ってきてなかったな。悪い、このみ」
 
 このみは甘党。コーヒーをブラックで飲む習性は無かった。
 
「あ、ううん。大丈夫だよ」
 
 そして、このみはそのままブラックコーヒーをそっと口に含んだ。おいおい、大丈夫なのか。
 
「うぅ…………」
 
 直ぐに涙目になるこのみ。やっぱり駄目だったか。
 
「ほら、オレンジジュースと交換」
 
 俺は自分の紙コップを好みに差し出す。
 
「でも……」
 
「そんな、飲めないものを無理して飲むこと無いだろ。それに元々俺はコーヒーが飲みたかったから問題無いんだよ」
 
 そう言いながら、俺は少し強引にこのみのコーヒーを奪い取った。
 
「あ」
 
 名残惜しそうに呟くこのみだったが、すぐに諦める。
 
「ほらよ」
 
 そして俺はオレンジジュースの入ったコップをこのみに渡した。
 
「ありがとう」
 
 渋々受け取るこのみ。少し悪い事したかな。そう思いながら、一口コーヒーをすする。まあ、値段相応の味だな。
 
「たっくんって、ブラックでコーヒー飲めるの?」
 
「まあな」
 
「凄いなー」
 
 そう言いながらこのみはストローでオレンジジュースを飲む。
 
「別に凄いって事は無いさ。このみは飲み慣れてないってだけだろ。それに苦いの苦手でし」
 
「うん。でも…………何でもない」
 
 途中まで言いかけた言葉を止めて、ジュースを飲む。
 
「………………」
 
 その言葉が気になったが、俺はそのままコーヒーと一緒に言葉を飲み込んだ。先ほどよりもコーヒーが苦く感じた。 
 
 
 その後とりとめない話しをしていると上映時間となる。周りを見てみると点々とだが人が見えた。さすがに貸しきりとはいかなかったらしい。
 
「二人占めは無理だったね」
 
 このみはそう言って笑った。
 
「さて、始まるぞ」
 
 映画に集中するためスクリーンを見る。その前に俺は一度このみを見つめた。
 
「………………」
 
 ちょっと見ない間に、このみはその分変わっていた。たぶん、このみはもっと変わるだろう。もっと美人になって、俺よりも良い奴に言い寄られてくるかもしれない。
 
「…………」
 
 このみを見るのは止めて、前を見る。
 
 そんな日が来ることを俺は恐れている。時間が止まればいいのに。この関係が永遠に続けばいいのに。
 
 そんな事を思ってしまった。
 
 
 映画が始まる。
 
 
「………………」
 
 最初の二十分は激動に進んだ。主人公の幸せと、その後に訪れる悲劇。そして悲劇を巻き起こした存在への復讐だけを糧に進み続ける主人公。すぐに感情移入できる話しだし、色の使い方が絶妙だ。
 
 これは当たりかも知れないと思ったが、その後の展開がいまいちだ。怒りを抱えたままの主人公が、とにかく日常を繰り返し続けるのだ。その辺はさっさとはけて、次の展開に行けばいいのに、なかなか次の展開に行ってくれない。これでは間延びしてしまってせっかくの設定が台無しになってしまうのではないだろうか。
 
「………………」
 
「………………」
 
 あまりにも退屈なので、俺はふとこのみの方を見てみた。
 
 このみは時折、首を落としては持ち上げるといった行為を繰り返している。典型的な居眠り状態だ。
 
「………………」
 
 しょうがないので肘で、このみをこずく。
 
「…………う〜ん」
 
 ぼ〜っと目を開けて、スクリーンを見るこのみ。しかし、
 
「…………ふみゅ〜」
 
 ぐったりと首を降ろす。駄目っぽい。
 
「このみ〜」
 
 小さな声で名前を呼ぶと、今度は手でこのみを揺らした。
 
「………………はう〜」 
 
 寝ぼけ眼で首を上げる。だが、しばらくすると
 
「…………う〜ん」
 
 首を横に
 
「って!」
 
 俺の肩にこのみの頭が乗っかる。軽い重みと甘いシャンプーの香りがほのかに俺の鼻腔をくすぐる。
 
(これは、ちょっと!)
 
 簡単に手を握ったり体に触れることくらいなら、まだ慣れがある。しかし、このシチュエーションは完全に予想外だった。こんな本当にデートみたいな状態になるなんて。
 
 俺はゆっくりとこのみの方を見る。本当に間近にこのみの顔がある。これで、肩を支えて顔を近づけたら……………… 
 
(いや、待て、俺!!)
 
 思わず想いを実行してしまう手を止める。本能のうねりを理性の鎖がようやくつなぎ止めている感じだった。
 
(まずい! まずい! まずい!!)
 
 こんな絶好のチャンス二度とあるまい。だが、許可も了承も得ずにそんなこと出来る訳がない。って許可も了承もあんまり変わらないよな。意識までおかしくなりそうだ。
 
(と、とにかく! 映画に集中を!)
 
 自分に言い聞かせてスクリーンに目を移す。映画は次の展開になっており、続きが全く分からない状態だった。
 
「ん〜…………」
 
 このみの吐息が聞こえる。
 
(ご……拷問だぁ〜!)
 
 もはや映画どころじゃない。この天国と地獄の状況をどうにかやり過ごす以外にない。
 
(な……何か別のことを…………)
 
 必死になって別のことを考える。だが肩から感じる暖かさが、あらゆる思考を打ち砕いていく。
 
(あー! 何で俺はこんな事で悩んでるんだよ!!)
 
 もう、訳が分からない。
 
 
 理性の鎖が一本切れた。
 
 
 このを見る。
 
(………………)
 内から声が聞こえてきた。
 
(…………何で、我慢してるんだ?)
 
 このみは眠っていて、たぶん、今ちょっとした事しても起きることはない。唇に何かが触れても、たぶん気づかない。
 
(………………) 
 
  そうだ。そっと近づけば、きっと気づかない。
 
「………………このみ」
 
 呼びかけてみる。もう少し大きな声で、ちょっと肩を揺すればきっと起きるだろう。でも俺はそれをせずに肩をゆっくりと抱きしめる。
 
「………………」
 
 もう少し距離を詰めれば。
 
 心臓の鼓動が五月蠅い。罪悪感が足枷となり、進みを遅らせる。だけど、もう少しで。
 
「………………けふっ」
 
「!!」
 
 思わず距離を離す。
 
 何をやってるんだ! 俺は!
 
 
 このみを自分の席で寝かせて、俺は背もたれにぐったりと寄りかかる。
 
「………………馬鹿だ」
 
 本当に馬鹿だ。こんなことして一体何になる。残るのは空しさだけなのに。
 
「…………あ〜あ」
 
 完全な道化だ。このみの周りをくるくる回る愚かなピエロ。
 
(好きって言えば…………)
 
 何か変わるのだろうか。何も変わらない気がしてならない。
 
(こうやって、俺は馬鹿みたいに回ってるのかなぁ………………)
 
 不毛な恋の様な気がした。
 
「………………」
 
 このみを見る。
 
「………………く〜」
 
 でも、
 
「………………」
 
 そっと、このみに顔を近づける。耳元まで近づき、俺はそっと。
 
「…………好きなんだ。お前のこと」
 
 告白にもならない告白を呟き、このみから離れた。
 
 
 スクリーンを見ると主人公と誰かのキスシーンが見えた。
 
 
「う〜………………」
 
 映画も終わり、スクリーンから出る俺とこのみ。しかし、このみは凹み続けていた。
 
「う〜………………」
 
「さっきから、何うなってるんだよ?」
 
「だって…………」
 
 何だか今にも泣き出しそうな顔つき。あ〜こりゃ宥めるの大変そうだ。
 
 ぐずぐずしているこのみを連れて映画館を出る。さて、時間もあるから飯でも食べて今日はさっさと買えるか。持ち合わせも少ないし。
 
「………………」
 
 ずっと黙ってるこのみ。車の前まで来て、その足が止まった。
 
「どうした?」
 
「…………」
 
 黙ったままだ。まったく、何が気に入らないのか。
 
「ったく。そんなに見逃すのが悔しかったならもう一度見返すか?」
 
 考えてみれば、後半から内容を全く覚えていないので、俺としても苦にならない。
 
「………………」
 
 しかし、このみは首を横に振った。
 
「じゃあ、何だよ?」
 
「………………」
 
 普段のこのみらしくない態度に、俺は戸惑いを覚える。こんな時の対処法が俺の対このみマニュアルには記されていないのだ。
 
 と、このみはうつむく。
 
「今日、大人っぽくなろうって頑張ったのに…………」
 
「は?」
 
「たっくん、私のこといつも子供扱いしてるから、だから、頑張ろうと思ったのに」
 
 もう顔は泣き出す寸前。宥めようと思って、でも今日のこのみの態度を思い出す。
 
 
 今日ね。たまにはおめかししてみようと思って、お母さんに手伝ってもらったの。でも……自信なくて…………
 
 
 たっくん、私、あれが見たいんだけど
 
      
 あ、あの。私もコーヒーでいいかな?
 
 
 そういうことか。
 
「でも、私、全然駄目だった…………」
 
「………………」
 
 まったく、こいつは。
 
 まあ、気づいてやれなかった俺も俺か。
 
「………………」
 
「…………このみ」
 
 顔を上げてはくれないが、俺はそのまま呟く。
 
「ごめんな。気づいてやれなくって。そうだよな。お前だってもう子供じゃないんだよな」 そう。いつまでも純粋ではいられない。俺だってそうだし、このみだってそうなのだ。今日はそれのちょっとした発露。そんな日だったのかもしれない。
 
「ただ、無理して背伸びする必要はないんだ。このみはこのみらしく大人になれば良いんだから」
 
「………………」
 
 このみはゆっくりと顔を上げた。
 
「だから、機嫌直せよ。その格好まで台無しにする気か? せっかく似合ってるのに」
 
「…………ホント?」
 
「ああ」
 
 出来る限り優しく微笑む。そしてこのみの頭を撫でた。
 
「む〜、また子供扱いしてる」
 
 口をへの字に結び、怒るこのみ。
 
「ハハハ、まあもう少しな」
 
 そうだ。いつか、この想いを話せる。それまで俺は待っていよう。このみがこの想いを受け取ってくれるまで。
  
 
 その後、昼食を食べ、結局もう一本映画を見て帰ることになった。
 
「………………」
 
 助手席にこのみを乗せて俺はハンドルを回す。
 
「………………」
 
 慣れない服を着たせいか、現在熟睡中のこのみを見て、俺は苦笑してブレーキを踏む。前には赤信号の交差点。
 
「…………ま、希望はあるんだよな」
 
 それが分かっただけでも、今日は満足できる日だった。悔しいが姉貴には感謝しないとな。今日辺りに姉貴と焼き肉屋に行って感謝しておくか。
 
「…………たっくん」
 
「ん、起きたか。このみ」
 
 横目で見るとこのみは背もたれから離れて、こちらを見ていた。  
 
「焼き肉屋さんには何時行くの?」
 
「今日にでも……………………え?」
 
 横を向く。するとふっと視界が黒くなり、何かが俺の唇に触れた。
 
「……………………」
 
 呆然とする俺。視界が黒からこのみの顔になる。
 
「へへ。たっくんが思ってるより、私は子供じゃないんだよ」
 
 え? え?
 
 訳が分からなくなって、俺は前がすでに青になっていることにすら気づけなかった。
 
「告白。すっごく嬉しかったんだから!」
 
ステップアップ 完

後書き